「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」
2009年8月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 12章43節~50節
汚れた霊が出て行くと
今日の福音書朗読の前半は、イエス様が群衆になさった、こんな風変わりな話でした。「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう」(43‐45節)。
汚れた霊が人から出て行ったり、砂漠をうろついてみたり、お友達連れて戻ってきたりということは、今日の私たちにはほとんど馴染みのない話題です。現代人の耳にはまことに奇妙な話に聞こえます。しかし、もう一方において、イエス様が言わんとしていること、何となく分かるような気もしませんか。悪いものが出て行って、一時的に状態が良くなる。しかし、長続きしない。気がついてみると元の木阿弥になっている。いや元に戻るどころか、以前よりもっと悪くなっている。ありそうな話ではありませんか。
例えば、人と争ってばかりいる人がいる。いつも心に怒りを溜めているような人。いつも他者に悪意を抱いている人。そんな人がいたとしましょう。しかし、その人が教会に来て、イエス様を信じまして、「ああ人に対して怒りや悪意を溜め込んでいてはいけないんだな。もっとクリスチャンらしく、穏やかな、誰とも平和でいられる人にならなくてはならないんだな」などと思うようになります。一生懸命、心の中から怒りと悪意を追い出そうといたします。そんな悪意で満ちた汚い心で生きるのはいやだ。もっときれいな心で生きたい。そんなことも思いまして、一生懸命に努力して、ある程度追い出しに成功するわけです。しばらくは、実に穏やかな人として過ごしている。周りの人も「あの人、変わったわねえ」なんて言っている。それがまた嬉しい。
しかし、残念ながら長く続きません。あることでついつい腹を立てて人を罵ってしまいました。すると怒ってしまった自分が情けなくて、もう「どうでもいいや」と思ってしまう。我慢するのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。どうせ自分はこういう性格に生まれついた不運な人間なんだ。あるいは、育った環境がそもそもいけなかったんだ。そもそも親が悪い。小学校の時の教師が悪かった。そんなことを延々と考えるようになります。そして、気付いてみると、前よりも状態が悪くなっている。まるで出て行ったはずの「怒り」が、「自暴自棄」や「自己憐憫」というお友達を連れてきたみたいです。
これに類することはいろいろと考えることができるでしょう。ある人は、嫉妬心を追い出そうとする。人と比較してばかりいちゃいけないんだ。人を妬むんじゃなくて、私として精一杯生きるべきなんだ。そのように考えて生きようとする。ある人は、不安や思い煩いを追い出そうとする。先のことばかり考えて思い煩うのは止めよう。そもそも思い煩っていること自体、不信仰じゃないか。クリスチャンの私が暗い顔をしていたら、そもそも証しにならないじゃないか。そんなことを考える。あるいは、様々な悪習慣についても同じです。どんな悪習慣であっても、行動する前に、まずは思い浮かべるわけです。その思いを一生懸命に追い出そうとする。考えないように、思い浮かべないように頑張るのです。そのようにして、一生懸命に悪いものを追い出して綺麗になろうとするわけです。
悪いものを追い出して、クリーンな心を実現しようとする努力は、ある程度は成功するように思います。しかし、どうも長続きしない。そう思いませんか。一度失敗すると元の木阿弥となってしまう。いや、失敗した自分を責めている内に、さらに様々な悪い思いが心の中に満ちてきて、状態は以前よりずっと悪くなってしまうことも起こります。このように、汚れた霊がお友達を連れて帰って来るという奇妙な話は、案外誰にとっても身近な経験なのかもしれません。
イエス様は、こんな話をした上で、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」と言われました。イエス様が見ていた当時のユダヤ人の社会も、同じようなものだったみたいです。確かにイエス様の時代のユダヤ人たちは、特にこの直前に出て来るようなファリサイ派の人たちは、皆、自分の内から悪いものを追い出して、生活からも悪いものを追い出して、宗教的にも道徳的にも清く生きることを願っていたのです。とにかく汚れたものは大嫌い。汚れた生活をしている異邦人などとは絶対に付き合わない。律法を守ろうとしない連中となど、絶対に一緒に食事などしない。とにかく清い者となることは、一大関心事だったのです。しかし、イエス様は言われます。そのように汚れたものを追い出して、お掃除したって、あいつらは自分より悪いお友達を連れて帰ってくるものだよ、と。
実際、この福音書を読み進んでいきますと、そのことが明らかになってまいります。汚れたものを追い出して、遠ざけて、清くあろうとした人たちの内側には、実は彼らも気付かない内に、汚れた霊のお友達が一杯住み着いていたのです。そのことがイエス様との関わりで明らかになるのです。彼らの内にあったものは、例えば、妬み、憎しみ、敵意、殺意などなど。結局それら全てがイエス様に対して噴出することとなりました。いやこの章の初めの方において既に、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(14節)などとも書かれています。いや、彼らだけではありません。民の長老たちや祭司長たちに煽動された民衆も、やがて「十字架につけろ!」と叫び出すことになるのです。これが清さを求めていた人々の内にあったものです。汚れた霊の悪友たちです。
皆さん、汚れたものを一生懸命に追い出すこと、そのために努力することは、良いことのように思えるではありませんか。しかも、追い出すだけでなく、掃除をして、整えるのです。そのように努力することはとても良いことのように思えるではありませんか。しかし、イエス様はそれでは掃除をして整えられた空き家のようなものだというのです。そこには悪いものがさらに満ちて、より悪いものになってしまう。ではどうしたら良いのでしょう。
心を空き家にしないため
そこでマタイは46節以下の話を続けるのです。「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(46‐50節)。
「汚れた霊が戻ってくる」という話とこのエピソードは一見関係なさそうに見えますでしょう。実際、ルカによる福音書ではそれぞれ別の章に記されています。しかし、マタイは、「イエスがなお群衆に話しておられるとき」という言葉をもって、あえて繋げて書きました。そして、私たちは今日、43節から50節までを繋げて読むように導かれているのです。なぜなのかを考えなくてはなりません。
まずこの話から受ける第一の印象は、「イエス様、冷たいなあ」ということだろうと思います。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」。まるで、外に立っているのは母親でも兄弟でも何でもない、と言わんばかりです。しかし、イエス様はこれを母マリアや兄弟たちに向かって言ったのではありません。そうではなくて、彼らが外に立っていることを伝えにきた人に言ったのです。さらに言うならば、その人に聞かせるためでもありません。あえて「弟子たちの方を指して言われた」のです。つまりこれは弟子たちが聞かなくてはならない言葉なのです。弟子たちのために語られた言葉なのです。そこには何人かの律法学者たちとファリサイ派の人たちもいたのです。その彼らの面前で、弟子たちを指して、イエス様はこう言われたのです。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(49節)。
つまり敷衍して表現するならば、要するに、「ここにいるのはわたしの家族だよ。わたしにとって肉親と同じくらい、いやそれ以上に大事なわたしの家族だよ。わたしの天の父の御心を共に行っていく家族だよ」と主は言われたのです。弟子たちはイエス様が自分たちをどのように見ていてくださるかを知らなくてはなりませんでした。それは私たちも同じです。イエス様が私たちを、教会をどのように見ていてくださるかを知らなくてはなりません。私たちにとって何よりも重要なのは、イエス様から「あなたたちはわたしの家族だよ」と言われているのだ、という認識なのです。そして、イエス様の家族として、イエス様と共に、イエス様が示してくださった天の父の御心を行おうとして生きていくことなのです。私たちを愛して独り子をお送りくださった、天の父の御心を行うことを求めて生きていくことなのです。それこそが大事なのです。それを抜きにして、ただ一生懸命に自分の心から汚れたものや悪いものを追い出して、掃除して整えることばかりを考えていてもうまくいかないのです。
実際そうではありませんか。自分の心から誰かに対する怒りや憤りや恨みを追い出してクリーンにすることに一生懸命になるよりも、「わたしはイエス様から兄弟と呼ばれているのだ。イエス様の兄弟として愛する天の父の御心を行うために生きているのだ。この人たちに対して、いったい何ができるんだろう。どのように天の父が喜ばれることを行ったらよいのだろう」と考えて生きていく方が大事だと思いませんか。そして、その思いを持ち続けているかぎり、多少失敗しても、また腹を立ててしまうことがあっても、またそこからやり直せるでしょう。また天の父の御心の実現を求めて生きていける。なぜなら、天の父は、イエス・キリストをお送りくださったイエス・キリストの父であり、私たちを私たちの罪を赦し、新たに生かしてくださる御方なのですから。イエス様の兄弟として天の父の御心を行おうとしている限り、心は空き家にはなりません。そこにはキリストと天の父がおられる。だから汚れた霊が出て行くならば、友だちを連れて戻ってきて、より悪いものが住み着く余地がなくなるのです。
これは他の様々な悪習慣についても言えるでしょう。さらには、思い煩いなどについても同じことが言えるだろうと思うのです。たとえば病気になった。その時に、先のことを思い煩うまい、心配するまいとして、思い煩いを一生懸命に追い出そうとするならば、思い煩いを追い出せない自分自身のことについて思い煩うことになるでしょう。そうではなくて、「わたしはイエス様から兄弟と呼ばれているのだ。イエス様の兄弟として愛する天の父の御心を行うために生きているのだ。今この状況において、いったい何ができるだろう。周りの人たちに対して、天の父が喜ばれるどのようなことを行い得るだろう」ということを考える方が大事なのでしょう。その時に気がついてみれば思い煩いは出て行って、友だちも連れて帰って来れなくなるということも起こるのです。
汚れた霊が戻ってくるという話については、「この悪い時代の者たちもそのようになろう」とイエス様は言われました。ならば、「この悪い時代の者たち」とは異なるアイデンティティを持って生きたらよいだけの話です。キリストの弟子として、キリストの兄弟として、神の御心を行うために生きている者として、そのような意識を持って生きたらよいのです。私たちはそのような者として生きるように招かれているのです。