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「あなたの心をゴミ箱にしてはなりません」

2009年11月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 7章14節~23節

今年も聖徒の日を迎えて

 今年も聖徒の日を迎えました。年に一度ですけれども、こうして召天者の名前 の書かれた額を礼拝堂に掲げます。懐かしい方々を思い起こしながら私たちはこ こに集います。私はこの額を前にしますときに、二つの意味で厳粛な思いに満た されます。

 第一にこれらのお名前は、私たちが多くのキリストの証人に見守られながら、 与えられた競走を走っているのだということを思い起こさせてくれます。ヘブラ イ人の手紙にこう書かれているようにです。「こういうわけで、わたしたちもま た、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡 みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうで はありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ ライ12:1-2)。そのように、私たちは天の聖徒たちの期待と注目を集めなが らこの人生というレースを走っているのです。

 そして第二に、これらのお名前は、私たちもまたレースを走り終える時が来る のだということを思い起こさせてくれます。一生はある限られた期間です。です から必ず結論が出る時を迎えることになります。私たちが走り終えた時、そのレー スについて、残された家族や友人が評価を下すでしょう。「この人はこう生きた」 と。あるいはレースに注目していた天の聖徒たちが評価を下すでしょう。いや、 それ以上に重要なのは、神様が評価を下すということです。結論が出るのです。 人生において重要なのは、私たちの周りで何が起こり、周りの人々がどうしたか、 ではありません。私たちが何を考え、どのようにどう生きたか、ということです。

 昨年の聖徒の日から一年が経ちました。早いものだと思います。この一年一年 の積み重ねが、私たちの一生です。一年を「どう生きたか」の積み重ねが、一生 を「どう生きたか」になるのです。その意味においても、この記念礼拝において 聞く主の御言葉は重要です。

食べ物によっては汚されない

さて、今年の聖書日課に従って今日与えられている御言葉は、先ほどお読みしま したマルコによる福音書7章です。特に注目したいのは、群衆をわざわざ呼び集 めてイエス様が皆に語られた14節以下の言葉です。「皆、わたしの言うことを 聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何も なく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14‐15)。

 「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。皆さんは、食べ 物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配しますでしょ うか。恐らく心配しないと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は私たち の生活にはないからです。ところがイエス様の時代のユダヤ人、特にファリサイ 派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、 それは重大なことなのです。

 例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教 儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、 それだけではありません。この章の3節以下を御覧ください。こんなことが書か れています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを 固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰っ たときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器 や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」 (3-4節)。市場では宗教的に汚れた人たち(異邦人など)と接触したかもしれ ません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。

 さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べて はいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。アツ アツのトンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他なのです。そんなこと をしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにパン を買って食べたりしません。ラードが入っている可能性があるからです。そんな 話を神学校の時に旧約の教授から聞いたことがあります。これが戒律の世界です。

 そのような背景を考えますと、今日お読みしたイエス様の言葉がいかに過激な 言葉かが分かりますでしょう。「外から人の体に入るもので人を汚すことができ るものなんて何もない」。そうイエス様は言い放ったのです。みんな目を丸くし て、「そんなこと言っちゃっていいんですか!」と言いたくなるような言葉なの です。

言葉によって汚される

 しかし、イエス様がそのような過激なことを言われたのは、その次を語るため なのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すので ある」。さて、イエス様は何を言おうとしておられるのでしょう。弟子たちは、 よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりとイエス 様に聞きました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに 物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができな いことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、 そして外に出される」(18-19節)。「外に出される」とお上品に訳されてい ますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入 るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。--本当に汚れるか汚れないかを 考えるならば、確かに重要なのは「腹」じゃなくて「心」ではありませんか。イ エス様は極めて現実的な話をしているわけです。

 では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのか。「食べ物」では なくて、「人の中から出て来るもの」です。人の心から出て来るものです。「中 から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」とイエス様は言わ れるのです。「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後に、具体的に、 「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、 傲慢、無分別など」と書かれていますので、これは「悪い行い」のことだと言え ないことはない。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、 「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、イエス様が考えておられる のは特に「言葉」のことであると言えるでしょう。

 すなわち悪い行い以前に、それに関わる「言葉」が問題なのです。ですから後 に書かれたマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。 「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しか し、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ 15:17-18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心 から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こ そ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れ るかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないこ とがあるのです。どんな言葉を心に入れるか、です。言葉によって心は汚される からです。

 イエス様がこう言われた理由は分かるような気がいたします。ユダヤ人の戒律 の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だったクリーンな世界です。 しかし、戒律の世界は同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。自分が嫌々守っ ていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になる。守っ ていないと赦せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単 に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。皆さんの中には、若かりし頃校則の 厳し学校で過ごしたことのある方もおられることでしょう。そのような人は感覚 的に分かると思います。

 また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他 の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない人は外側を一生懸命に 繕うようになる。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをす るようになったりいたします。表向き真面目な人たちの仲間の間では、案外下品 な話題で盛り上がるようなことも起こります。ですから、イエス様が言っておら れる、「好色、ねたみ、悪口、云々」は、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとっ ても極めて身近なことでもあったろうと思います。そして実際、悪口、陰口、姦 淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れなが ら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ 箱のようになっていくことでしょう。

 そう考えますと、これは私たちに無縁の話ではありません。実際どうでしょう。 私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の 話題の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そこ に身を置いていることは、少なくともその時には、案外気持ちのよいことだった りするものです。そんな経験、ありませんか。あるいは他ではできないような下 品な話を仲間内だけでしている時は、案外楽しかったりもするものです。そこで 妙な連帯感も生まれたりもいたします。だからついつい身を置いてしまう。ある いは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配に なって、ついつい話に加わってしまう。そういうことは起こると思いませんか。

 しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。 それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち 始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出 て来るようになる。そうです、そのような言葉を心にいっぱい入れていくと、心 から逆流して口から出て来ることになるのです。すると、今度は他の誰かを汚す ことになるのです。どのような言葉を心に入れるか。私たちは注意しなくてはな りません。

 もちろん、注意していても入ってくるものはある。いつの間にか心が汚されて いることも起こります。それはそのままにしないことです。家のゴミ箱をそのま ま放置するようなことはしないでしょう。イエス様のもとに持っていくことです。 汚れた心のままでイエス様のもとに行くのです。私たちが汚れていたとしても、 忌み嫌わず斥けない御方のもとに行くのです。汚れたこの世界の罪、私たちの罪 を贖うために十字架にかかってくださって、私たちに罪の赦しをもたらしてくだ さった、イエス様のもとに、汚れた心を携えて行くのです。私たちの心のゴミを イエス様のもとに吐き出して、イエス様の憐れみよって清めていただきましょう。 さらには人の汚れた心から出た言葉ではなくて、神様からの言葉で心を満たして いただきましょう。そして、神様の言葉そのものであるイエス様と共に生きてい きましょう。

 それが神様の恵みによって私たちに与えられている生活のサイクルです。その サイクルの積み重ねが来る一年となります。その一年一年の積み重ねが私たちの 一生となります。一生を終える時に、振り返ってみると私の人生はゴミに溢れた ゴミ箱だった、なんてことにならないようにしたいものです。

 
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