「恐れることはない。ただ信じなさい」 2009年11月8日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 5章21節~24節、35節-43節 わたしの幼い娘が死にそうです  今日の聖書箇所には会堂長のヤイロという人物が登場します。会堂長は会堂の管理運営の最高責任者です。しかし、単なる建物の管理者ではありません。会堂を中心とする地域共同体の指導者であり、また様々な訴訟の裁定にも当たります。そのような立場にある人が、イエスの足もとに来てひれ伏した。そのこと自体、ある意味でたいへん驚くべきことでした。  というのも、この時点で既にユダヤ人の指導者たちはイエスを敵対視するようになっていたからです。例えば3章を見ますと、イエス様がある安息日に会堂に入った時に、そこにはイエスを訴えようと思って、安息日に片手の萎えた人をいやされるかどうか注目している人々がいたことが記されています。彼らは共同体において指導的な立場にあったファリサイ派の人々です。そこで癒しの働きをすれば律法違反として告発され、トラブルに巻き込まれることは明らかでした。しかし、それをあえて承知の上で、イエス様はその人を癒されたのです。すると「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(3:6)と書かれています。  そのようにユダヤ人の指導者たちはイエスを憎んで殺そうとしていた。そのような状況において、地域共同体の指導者たる会堂長ともあろう人がイエスの足もとにひれ伏したなら、後々やっかいなことになることは目に見えています。にもかかわらずヤイロはイエス様のもとに来てひれ伏した。なぜですか。立場がどうのこうの言っていられるような状況ではなかったからです。彼の幼い娘が病気だったのです。死にそうだったのです。危機的状況です。それは自分自身が病気である以上に危機的状況なのです。それゆえに、イエスの助けを求めたのです。  既にイエス様の噂は広く知れ渡っていました。奇跡を行う人として、悪霊を追い出し、病気を癒す人として、知られていたのです。ですから、「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」(3:10)というようなことも書かれています。ヤイロもそのような病気治癒者、ミラクルヒーラーとしてのイエスの噂を聞いていたのでしょう。イエスがガリラヤ湖の向こう岸から戻ってきたと聞くや、湖のほとりへと一目散に飛んできた。もちろん娘の病気を治してくれることを求めてです。彼はイエスのもとに来て、こう言ってしきりに願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(23節)。  イエス様は彼の願いを聞き入れて、ヤイロと一緒に家へと向かいました。大勢の群衆もぞろぞろと後についていきました。この間も、ヤイロは非常に焦りを覚えていたに違いありません。一刻も早くイエス様を家にお連れしたかったことでしょう。娘は死にかかっているのです。早くイエス様に手を置いてもらいたかった。早くイエス様に癒していただきたかった。「もっと速く、速く」と心の中で叫んでいたに違いありません。  ところが、そこで一つの事件が起こるのです。今日の朗読では読み飛ばした部分です。十二年間も出血が止まらない病気の女が、群衆に紛れ込んで後ろからイエス様の服に触れたのです。そして、その人の病気が癒された。しかし、事はそれで終わりませんでした。イエス様はいきなりその人を捜し始めたのです。「わたしの服に触れたのはだれか」と。女は自分が癒されたことを知り、恐ろしくなって震えながら進み出てひれ伏して、ありのままを話しました。するとイエス様は彼女にこう言ったのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。イエス様はどうしても、その言葉を癒された女の人にかけてあげたかったのです。  「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われたその女は大喜びだったに違いありません。しかし、可哀想なのはヤイロです。この出来事の間、彼はどんな思いでそこに立っていたことでしょう。「イエス様、どうしてですか?そんなこと、どうでもいいではありませんか?一刻を争うのです。そんなことをしていたら、手遅れになってしまうではありませんか!」  そして実際手遅れとなったのです。イエス様が「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と語りかけていたまさにその時に、会堂長の家から人々が来てこう告げました。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と。終わりです。完全におしまいです。もはや手だては尽きました。もはや何をも為しえることはありません。望みは絶たれました。しかし、人間の目には完全に終わりに見えるその時に、イエス様はこう言われたのです。ーー「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)。 ただ信じなさい  「恐れることはない。ただ信じなさい」。今日は特にこの御言葉を心に刻みたいと思います。「恐れることはない」。この「恐れるな」という言葉、聖書によく出て来ると思いませんか。例えば天使が現れた時の言葉として。あるいは預言者の言葉として。あるいは神が夢に現れて語る言葉として。いずれにせよ多くの場合、それは神様が語りかける「恐れるな」なのです。考えてみれば当然とも言えるでしょう。本当の意味で「恐れるな」と言うことができるのは神様だけだからです。  想像してみてください。「お嬢さんは亡くなりました」という知らせを受けてへたり込んでいるこの人に、あなたならばどんな言葉をかけますか。そこで「恐れることはない」って言いますか。確信を持って言えますか。普通は言わないだろうし、言えないだろうと思うのです。これはどう考えても人間から出て来る言葉ではない。この世から出て来る言葉ではないのです。イエス様はまさに神として、神の権威をもって語っておられるのです。絶望の深い淵の底に沈んでいるその人に、神の言葉を語っておられるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。  イエス様の言葉は何を意味しているでしょう。人間の目にどんなに絶望に見えたとしても、完全に終わりに見えたとしても、そこにはなお「信じる」という選択肢が残されているということです。  もう終わりだ。もう先がない。望みが絶たれて前を向けなくなったなら、普通は後ろを向くしかありません。なぜこんなことになったのか。なぜこんなことになるのか。そう言って、自分を責め、誰か他の人を非難し、あるいは運命を呪い、神を呪う。そうやって絶望の暗闇の中に留まり続ける。そういう選択肢しかないように思うものです。実際、ヤイロもそう成り得たわけでしょう。なんでもう少し早く病気に気付いてあげられなかったんだろう。なんでよりによって急いでいる時に、この女がイエスに触ったりしたんだろう。この女の一件さえなければ、もしかしたら間に合っていたかもしれないのに。そもそも、なぜイエスは一刻を争う時に、グズグズしていたんだろう。なぜ?どうして?なぜ?どうして?そのようにグルグルと同じことを問いながら、絶望の暗闇の中に留まり続けるのではありませんか。  しかし、そんなヤイロにイエス様は言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。そう言って、イエス様は先に進んで行かれるのです。ならばそこにはもう一つの選択肢があるのです。「信じる」という選択肢。そうです。イエス様を信じて、神を信じて、ついて行くのです。どこまでも信じて、ついて行くのです。当初ヤイロが求めていたのは病気の治癒者でした。イエスとはそういう存在でした。しかし、今、彼が信じようとしているのは単なる治癒者ではありません。治癒者ならもう必要ないのです。家から来た人々が言いましたでしょう。もう先生を煩わすには及ばない、と。しかし、ヤイロがここで触れているのは治癒者ではありません。彼は神に触れているのです。  ヤイロは行く先に何が待っているのか、全く分からなかったに違いありません。まさか娘が生き返るとは思ってはいないでしょう。イエス様が何をしようとしているのか。神は何をしようとしているのか。これから何が起こっていくのか。自分はどこへと向かっているのか。それは全く分からない。しかし、ただ一つのことは分かります。「恐れるな。ただ信じろ」と言ってくださる方が共におられるということです。だから彼はついていきました。ただ信じて、信頼して、ついて行ったのです。  ついて行ったところで、ヤイロは何を見たのか。イエス様が子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われるのを見たのです。すると少女はすぐに起き上がって、歩き出した。ある人は、この少女は仮死状態だったのであって、息を吹き返しただけなのだ、と説明します。そう考えて納得する人は、それでよいでしょう。いずれにせよ、聖書はキリストによる奇跡としてこれを伝えています。そして、キリストがあえて奇跡を起こされたのなら、そこには意味があるのです。メッセージがあるのです。あのヤイロにとってだけでなく、後の私たちに対するメッセージがあるのです。  それは何か。私たちがキリストと共にあるならば、最終的には死でさえも終わりではないということです。絶望ではないということです。私たちはそのことを伝えられているのです。単に不思議なことが起こりましたということを伝えられているのではないのです。私たちは、最終的には死に直面したとしても絶望しないという選択肢を持ち得るということが語られているのです。「信じる」という選択肢がある。恐れないで、ただキリストを信じ、神を信じたらよいのです。私たちが「信じる」ならば、死でさえも私たちを絶望に閉じこめることがはできない。ならば、ましてや他のいかなるものも、私たちの望みを絶つことはできないということです。どんな時にも、私たちには「信じる」という選択肢が残されているからです。イエス様は私たちにも言われるのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。