「らくだも針の穴を通り得る?!」 2009年11月22日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 テモテへの信徒への手紙一1章12節~17節 限界を感じる時  与えられている務めに対して、あまりに自分が無力であると感じたことがありますでしょうか。与えられている仕事の大きさに対して、自分の能力の小ささや自分自身の限界に苦しんだことはありますでしょうか。自分は相応しくない。自分には無理だ。そう思いながらも、なんとか留まっているけれど、本当は逃げ出したい。投げ出したい。そのような時を経験したことがありますでしょうか。  もし今までにそんなことは一度も無いと言われるならば、その人はこれまで何でも難なくこなすことができた高い能力の持ち主か、あるいは、向き合うべき課題にきちんと向き合っていないかのどちらかでしょう。担うべきことを他人任せにしてきたか。そちらの可能性の方が大きいかもしれません。現実から逃避しないで、与えられている務めを担おうとするならば、多かれ少なかれ自分の限界や無力さと向き合うことになるものです。  牧師にもそういう時があります。自分は相応しくない。自分には無理だ。そう思える時がある。私だけではありません。例えば、聖書に出て来るテモテという人も、そのような自分の限界に苦しんだ人のようです。  テモテは小アジアのリストラの人でした。父親はギリシア人、母親は信仰深いユダヤ人です。やがて彼の母と祖母がキリスト者になりました。やがて彼もキリスト者となり、その地域の兄弟たちの間で評判の良い人であったようです。そのようなテモテを第二回伝道旅行の途中にあったパウロが見出し、彼を伝道旅行に同行させました。こうしてテモテはパウロの同労者となりました。  やがてテモテはエフェソの教会を牧会しながらパウロに代わって小アジア諸教会の指導に当たるようになりました。その頃、パウロは獄中にいました。既に最初の出会いから十年以上も経っていた頃です。しかし、この手紙を読みますと、テモテの働きが相当に困難を極めていたことが分かります。異端的な教師たちの問題に悩まされ、しかも彼はまだ年若く未熟でもあり、体も弱かったようです。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(5:23)ということまで書かれています。肉体的にも精神的にも相当に弱っていたのでしょう。  いや、さらに第二の手紙の方を読みますとこんなことが書かれています。「そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます」(2テモテ1:6)。ここで言う「神の賜物」とは牧師としての務めのことです。任職のためにパウロがテモテに手を置いたとき、聖霊の働きを通して神がこの務めを賜物として与えてくださいました。しかし、パウロは「再び燃え立たせなさい」と言うのです。つまり、その火が消えかかっていたということです。火が消えかかっている状態。私たちも自分の無力さや限界に苦しんで、「もうだめだ。もう逃げ出したい」と思ったことがあるならば、このテモテの状態もある程度は想像できるでしょう。 わたしを強くしてくださった主  そんなテモテにパウロは手紙を書きました。そして、彼はテモテにこう言うのです。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」(12節)と。テモテはこれまでパウロの最も近い同労者として働いてきました。そして、想像するに、テモテはこれまで幾度も思ったに違いありません。あのパウロのようにはなれない。わたしはあの人ほど強くない、と。それはパウロも感じていたことだろうと思うのです。ですから、パウロは言うのです。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています」と。自分に強さがあるとするならば、それは生まれながらの強さなどではありませんよ。キリストが強くしてくださったのですよ。そして、パウロはそのキリストを「《わたしたちの》主キリスト・イエス」と呼んでいるのです。その御方は、わたしの主であるだけではない。あなたの主でもあるのだよ、とパウロは言っているのです。  そして、パウロは「わたしたちの主イエス・キリスト」が何をしてくださったかを語り始めます。キリストは「わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださった」と彼は言うのです。しかし、それはパウロがそれまで何らかの形においてキリストに忠実に仕えてきたからではありません。実績があるから「忠実な者」と見なしてくださったのではないことをパウロは重々知っているのです。パウロの過去を見て務めに就かせてくださったのではない。いわば彼の未来を見て、あえて言うならば、《パウロを信じて》務めに就かせてくださったのです。彼自身については「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」とパウロは言っていますし、そのことを忘れたことはなかったのです。  ご存じのように、彼はキリストとその教会の迫害者でありました。最初の殉教者となったステファノが石で打たれて殺された時、その当時まだ年若きパウロは、恐らく何らかの責任ある立場として、その処刑に立ち会っていたのです。石で打たれ血塗れになって死んでいく一人の人をじっと見守りながら、その殺害を肯定している自分自身について、なんらのやましさも感じてはいなかったのです。さらに使徒言行録を見ますと、パウロがしてきたことが次のように語られています。「サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」(使徒8:1-3)。  しかし、そのパウロがキリストに出会うこととなりました。それとともに自分自身とも向き合うこととなりました。他の人を裁き、怒りを向け、断罪してきた自分自身こそが、まさに神の前に裁かれるべき罪人であるということを知ったのです。しかし、そこでパウロが出会ったキリストは、パウロを罪人として断罪するキリストではありませんでした。そうではなくて、彼を赦し、彼を救ってくださるキリストだったのです。パウロは神の怒りを知ったのではなく、こんな自分をも赦して救ってくださる神の憐れみを知ったのです。ですから彼は言うのです。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(15節)。  罪人の中で最たる者であるわたしが赦され、救われ、永遠の命にあずかり、さらには使徒の務めまで就かせていただいている。それはパウロとしてはまさに本来絶対にあり得ないことだったのです。そのあり得ないことを現実としたのは、神の憐れみ以外の何ものでもありませんでした。罪人を救ってくれるというような、そんなあり得ないようなことを実現してくださる主、とてつもなく大きな憐れみをもって行動なさる主こそが、パウロを務めに就かせてくださった主なのです。ならば、パウロにとっては何も心配する必要はありませんでした。既にあり得ないことが起こっているのですから。そのあり得ないような憐れみによって、務めを全うさせてくださるはずです。それがパウロの確信であり、パウロの「強さ」に他ならなかったのです。 らくだが針の穴を通る以上のこと  なぜパウロがテモテにこれを語っているのか。もちろん、テモテにも同じように、既にあり得ないようなことが起こっているのであり、そのとてつもなく大きな憐れみの中にあることを知っているからでしょう。私たちもまた、このことを私たち自身のこととしてよく考えなくてはなりません。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」。だから、わたしもあなたも、今ここにいるのです。本来ならば、私たちが犯してきた罪を責められ、断罪され、滅びを宣告されても不思議ではない私たちが、今ここに、赦された者として、愛されている者として、永遠の命にあずかる者として、そして神に近づき礼拝を捧げ、神を賛美できる者としてここにいるのです。当たり前のことですか。そうではありません。これは本来あり得ないことなのです。  今日の福音書朗読の中でイエス様はこう言っておられました。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:24-25節)。「金持ち」とありますが、これは「富んでいる者」という意味です。「富んでいる者が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と主が言われたので、これを聞いた弟子たちは驚いて言いました。「それでは、だれが救われるのだろうか」と。  弟子たちがこう言うのも無理はありません。というのも、この直前に出て来る人は、ただ財産を持っているというだけでなく、モーセの律法を幼い頃から守ってきた正しい人でもあったからです。つまり良い行いにも富んでいる。そういう人なのです。しかし、それでも神の国には入れない、救われないとイエス様は言われるのです。それよりは「らくだが針の穴を通る方が易しい」と。つまりは可能性ゼロということです。「それでは、だれが救われるのだろうか」と弟子たちも問わざるを得ない。しかし、そこでイエス様は言われたのです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)。  そうです。「人間にできることではない」。救われるということは本当は可能性ゼロなのです。どうしたって、神の前に問われれば、裁かれて断罪されるしかない。滅びるしかない。しかし、それでも「神は何でもできる」のです。神によれば、らくだも針の穴を通り得る。いや、それ以上に難しいことがおできになる。そうです。神様に差し出す良き行いが何にもない人であっても救うことができる。いや、良い行いがないどころか、莫大な罪の負債を抱えた人であっても救うことができる。そうです、何でもできる神様が、何でもできる神様であるからこそ、独り子を世に遣わしてくださって、すべての人の罪の贖いとして十字架におかけになってくださった。罪人が救われる道を開いてくださったのです。そして今、私たちは救いに与ってこうしてここにいるのです。  そのように、既にあり得ないようなことをしてくださった神様が、私たちを務めに就かせてくださっているのです。教会の奉仕だけではありません。私たちを信頼して、今目にしている現実を託してくださっているのです。ならば私たちが無力であっても、弱さを抱えていたとしても、少しも心配する必要はありません。罪人を救うことができる神様は、イエス・キリストによって私たちを強くすることがおできになります。パウロは別の手紙でこう言っています。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(フィリピ4:13)。そうです、私たちも同じように語ることが赦されているのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と。