「神の言葉を聞く」
2009年12月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 7章1節~13節
骸骨のような宗教的生活
ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは 昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)。 実際、弟子たちが手を洗わないで食事をしていたのです。「不衛生じゃないか」 と言っているのではありません。手を洗うという宗教儀式を行わないで食事をし ているという話です。なぜそれが問題になったのか。ここではユダヤ人の習慣に 馴染みがない人のために解説がなされています。「ファリサイ派の人々をはじめ ユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでない と食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事を しない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固 く守っていることがたくさんある」(3-4節)。それをイエス様の弟子たちが守っ ていなかった。それをファリサイ派の人たちが咎めたという話です。
彼らが守ってきた「昔の人の言い伝え」。ずいぶんたくさんあったようです。 それらはもともとは神の御心に従って生きたいという熱意から生まれてきたもの でした。神を愛するゆえに生まれてきたものであるし、伝えられてきたものだっ たのです。彼らは神に従うということを観念的なこととはせずに、具体的な生活 において実践しようとしました。そのために、モーセの律法の言葉を解釈し、現 実の生活に適用したのです。あるいは無意識のうちに、神の御心に背いてしまう ことのないように、という思いもあったでしょう。罪を犯してしまうことを未然 に防ぐために、柵を張り巡らすように、細かい規定を定めたのです。そのように、 「昔の人の言い伝え」は、もともとは良い意図から定められてきたものでありま すし、神を愛する心によって伝えられてきたものなのです。
しかし、あることが定められ、皆によって行われるようになりますと、その行 為そのものが一人歩きを始めるものです。もともとどのような意図によって行わ れるようになったかは無関係に、ただ行われること自体が目的となってくる。心 が抜け落ちて形だけが残るということが起こってまいります。ファリサイ派の人 たちは、ある意味では極めて真面目な人たちでした。行うことになっていること はきちんと行う。定められていることはきちんと守る。しかし、イエス様は心が 抜け落ちていることを見抜いておられました。ですので、イエス様は実に厳しい 言葉をもって現実を突きつけています。主は言われました。「イザヤは、あなた たちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『こ の民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒 めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟 を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6-8節)。
「その心はわたしから遠く離れている。」そう神様が言われるとおりではない か。イエス様はそう言われるのです。心が抜け落ちて、命が失われて、干涸らび た骸骨のような宗教的な行為だけが残っている。すると、今日の聖書箇所に書か れているようなことが起こります。行うことになっているから行う。守ることに なっているから守る。そのようなことが増えてきますと、行っていない人、守っ ていない人のことが気になるようになってくる。自分はきちんと守っています。 自分はしっかりやってきました。そういう思いが強くなると、どうしてもきちん と守っていない人を非難したくなる。非難したり批判したりすることに一生懸命 になっている内に、実は一番重大なこと、その心が神から遠く離れていることに 気付かなくなってしまう。そういうものです。
今日の箇所で登場してきた人たち、「エルサレムから来て、イエスのもとに集 まった」と書かれています。百キロちかく離れたところからわざわざやってきた のです。イエス様が慕わしくて、イエス様にお目にかかりたくて、長旅も厭わず やってきた....のではありません。批判するためにやってきたのです。あら探し をするためにやってきたのです。これが初めてではありません。既に3章におい て、エルサレムからやってきた律法学者たちがイエス様を批判し、論争をしてい ます。彼らはここでも「洗わない手で食事をする」という弟子たちのあらを目ざ とく見出します。本当はイエスと弟子たちを通して神の恵みが溢れるばかりに現 れているのに、神様が為さっていることが大きく現れているのに、そこに目が行 きません。心が神から離れているから。
さて、この話が聖書に記されているのは、もちろん教会がユダヤ教を批判する ためではありません。そうではなくて、教会もまたこのようになり得るというこ とでしょう。キリスト者の信仰生活もまた、心が抜け落ちて、命を失って、ひか らびて骸骨のような信仰生活になり得るということです。行うことになっている ことは行っている。守るべきことは守っている。しかし、心は神から遠く離れて いる。その結果、人のことばかりが気になる。人の言葉や人の行為ばかりが気に なる。非難したくなる。裁きたくなる。その一方で、人からどう見られているの かが気になって仕方ない。批判されているのではないかと恐ろしくて仕方ない。 人の目ばかりを気にして、実に不自由で窮屈な生活に陥ります。そして、そうなっ ているのは他の人の責任のような気がするわけですが、実は、本当の問題はどこ にあるのかと言えば、それは私たち自身の内にあるのです。
神の言葉を聞く
そのような状態にあるということは、本当はとてももったいないことなのでしょ う。せっかく神の恵みによって招かれたのです。ただ神の憐れみによって招かれ たのです。そして、キリストが十字架の上で流してくださった贖いの血のゆえに、 罪を赦していただいたのです。罪を赦されて、義とされて、神との交わりの中に 入れていただいたのです。神を天の父と呼んで、神を仰いで、神と共に生きる生 活を与えていただいたのです。ある時、キリストは言われました。「わたしが来 たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ10: 10)。主は命に満ち溢れた生活を与えるために来られた。そして、命の源であ る父と結びつけてくださったのです。いわば巨大な水源につなげられたようなも のです。しかし、蛇口を閉じてしまって、水が出ないようにしてしまって、ただ 蛇口の見てくればかりを気にして、一生懸命にピカピカに磨いている。いわばそ んなことをしているならば、それは本当にもったいない。
そうならないためには、どうしたら良いのでしょう。そこで注目すべきは、彼 らについてイエス様が言われた次の言葉です。「こうして、あなたたちは、受け 継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13節)。それが彼らの問題だっ たのです。ならば重要なことは「神の言葉を無にしない」ということなのでしょ う。
しかし、「神の言葉を無にしない」とはどういうことでしょう。ユダヤ人の世 界において、「神の言葉」と言ったら、それはまず「聖書」だったのです。そし て、ある意味で彼らは聖書を無にしてはいないのです。そこにいたのは律法学者 たちです。律法の専門家です。聖書の専門家です。「受け継いだ言い伝え」も、 それはつまるところ聖書の言葉の解釈なのです。彼らは聖書を重んじています。 粗末になんかしていません。しかし、イエス様は彼らが「神の言葉を無にしてい る」と言われる。そして、その実例を挙げています。
「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処 せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。 『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何で もコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に 対して何もしないで済むのだ』と」(10-12節)。
若干説明を加えます。「コルバン」というのは「供え物」を表わすヘブライ語 です。「コルバン」すなわち「供え物」についての律法は、旧約聖書のレビ記な どに事細かに出ています。それによるならば、供え物は神に捧げた神聖な物なの で、他の日常のことに使うことは出来ないのです。これが「コルバンの規定」で す。彼らは確かにそれを守っているのです。先祖がしてきたように、イエス様の 時代の人も守っている。しかし、そこでこういうことが起こっていたというので す。たとえば、「私の持っているものはコルバン用なので、あなたのために用い ることは出来ません」と親に言うのです。するとそれは親を扶養するためには使 わなくてよい。かといって、その人はたいてい自分の持ち物を実際に神殿に奉納 するわけではありません。奉納は自分が死んでからでも良かったのです。ですか ら実質的には供え物にはならない。
形の上では確かに守っています。しかし、そんなことを神様は望んでおられた のでしょうか。彼らは神様が望んでおられることを聖書から聞き取っていたので しょうか。神様の心を聞き取っていたのでしょうか。もちろん「否」です。言葉 というものは心を伝えるものです。神の心を聞いていなければ、神の言葉を聞い たことにはならない。どんなに聖書の学者だろうが、神の言葉は聞いていない。 どんなに文字通り書かれていることを遵守していようが、神の言葉は聞いていな い。「あなたがたは神の言葉を無にしている」と主は言われたのです。
神の言葉に耳を傾けることなくして、命のある信仰生活を形作ることはできま せん。神の言葉に耳を傾けることがないならば、命のないひからびた骸骨のよう な信仰生活になります。神の言葉に耳を傾けるということは、語りかけてくださ る神を意識することです。自分が神の御前にあることを意識することです。神も 私たちに向かって語りかけていてくださる。そのことを意識することです。それ が重要なのです。ですから、ここで行われていることは単なる聖書の勉強会とは 呼ばれないのです。あくまでも「礼拝」なのです。
聖書が朗読される時も、漠然と聞いていたり、ただ聖書の文字を目で追ってい てはならないのです。むしろ必要なければ聖書は開かなくてもよいのです。聞い たらよい。そこで「神様は今日、何を語りかけていてくださるのだろう」と考え ながら、一心に耳を傾けるのです。説教も牧師の言葉だけを聞いていてはならな いのです。「今日のは面白かった」「今日のは退屈だった」などと言って終わり にしてはならないのです。今日、神は何を語りかけていてくださるのか。何を語 りかけてくださったのか。そのことを思い巡らすことこそが重要なのです。
もし、今、信仰生活が命を失った骸骨のような状態ならば、もう一度、信仰生 活を建て直しましょう。神の言葉を聞くということを大事にして、もう一度建て 直しましょう。干涸らびた生活があるとするならば、誰のせいでもありません。 それは私たち自身の意識の問題です。神様に私たちの意識を向けましょう。この 礼拝を境に、この後の聖餐を境に、新しくスタートしましょう。ここにいる私た ちは単に宗教的カテゴリーにおいて「キリスト教徒」と分類される人々ではあり ません。生ける神の言葉を聞きながら、生ける神と共に生きる人々です。