「イエスが十二歳になったとき」 2010年1月3日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ルカによる福音書 2章41節~52節  今日お読みしたのは、イエス様が12歳の時の話です。春になりますと過越祭 を祝うためにヨセフとマリアはエルサレムへ巡礼するのを常としておりました。 イエスが12歳になった年も、彼らは少年を伴っていつものように都に上りまし た。しかし、そこで一つの事件が起こります。祭りを終え、ガリラヤから来た多 くの人々と共に帰路に就いたマリアとヨセフは、一日路を行ったところではたと 気づいたのです。「イエスがいない!」慌てふためいて親類や知人の間を探し回 ります。見つかりません。彼らは道々尋ねながらエルサレムへと引き返しました。 そして三日目に、ついに彼らは少年イエスを見つけ出したのです。なんと彼は神 殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしているではあり ませんか。マリアは思わず詰問します。「なぜこんなことをしてくれたのです。 ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。マリアがこう言 うのも無理はありません。本当に心配していたのです。しかし、少年はそんな母 の心配をよそにこう答えたのでした。「どうしてわたしを捜したのですか。わた しが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。  どうですか、こういう子供。普通にこれを読んだら、実に可愛げのない子供だ と思いませんか。ちょっとばかり賢いかもしれないけれど、実に小生意気な子供 です。親の気も知らないでそんな偉そうな口を利く子供は、少々懲らしめてやら ねばならない。親の権威を重んじる常識的なユダヤ人ならば、たいていはそう思 うに違いありません。  しかし、これは聖書の中でイエスの少年時代を伝える唯一の物語なのです。し かも、ここに記されているのは、ルカによる福音書において最初に発せられるイ エス様の言葉なのです。さらには「母はこれらのことをすべて心に納めていた」 ということが書いてある。このイエス様の言葉、イエス様の行動は後々まで伝え られねばならないほど、やはり大事なことのようです。 飼い葉桶から十字架へ  イエス様が12歳の時。ユダヤ人の子供は13歳で成人とみなされます。です から、その直前のことです。成人しますと律法に定められている義務が課せられ るようになります。それまでに子供たちは暗記を中心とした律法の学びを完了せ ねばなりません。そして、成人としての義務が突然の重荷となることがないよう に、その前に予行演習をいたします。イエス様が12歳の時にエルサレムに連れ て行かれたのも、そのような意味があったものと思われます。  少年イエスが発見された時、彼は神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を 聞いたり質問したりしておりました。「聞いている人は皆、イエスの賢い受け答 えに驚いていた」(47節)と書かれております。しかし、この場面を思い浮か べますときに、私たちの国の12歳の少年を考えてはなりません。既に申しまし たように、この時点で律法についてはほぼ一通り学びを完了し、成人として歩み だそうとする直前なのです。学者たちと話をしたり、質問したりする少年がそこ にいることは決して奇跡ではありません。ルカには恐らく超自然的な要素を強調 する意図はなかったでしょう。私たちが注目すべきことは他にあるのです。少な くとも二つあります。  第一に注目すべきことは、このエピソードには受難物語と関係する言葉が多い ということです。両親は過越祭にイエスを連れていきました。主が十字架にかか られたのは、過越祭の時でした。少年イエスは両親と共にエルサレムへと上りま した。主が十字架にかけられたのもエルサレムです。ルカによる福音書は特に大 きな部分をエルサレムへと上る旅の物語に費やしているのです。少年イエスが見 えなくなって、三日目に再び見いだされたという話は、三日目に復活したことを 思い起こさせます。  第二に注目すべきは、イエス様自身の意識を良く現している49節の言葉です。 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前 だということを、知らなかったのですか」(49節)。ここで「当たり前だ」と 訳されている言葉。これは後に受難予告に出て来ます。イエス様は御自分の受難 を予告してこう言われるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭 司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」 (9:22)。ここで「必ずすることになっている」と訳されているのが同じ言 葉です。しばしば「神の必然」と呼ばれる表現です。  何が必然なのでしょうか。「父の家にいること」です。実は「父の家」と訳さ れていますが、原文はただ「父のもの(複数)」としか書いてないのです。イエ ス様はただ神殿のことだけを言っておられるのではないのでしょう。イエス様は 父のものの中にいる。父の事柄に関わっている。それは具体的にはやがてエルサ レムへと上ることになり、十字架にかけられることになる人生です。そのように して世の罪を贖い、神の救いの御業を実現することになる歩みです。それが「当 たり前だ」と言われたのです。「当然そうなることになっている」と言われたの です。それが神の必然であると。  つまりこの物語から見えてくるのは何であるかと言うと、12歳の少年イエス が既にその時には天の父の定められた道を自覚的に歩み始めていたということな のです。はっきりと意識して、天の父との関わりの中に生きていた。イエス様が 「父」と言ったら、それはヨセフではなくて神なのです。そして、その父の御計 画を実現するために、イエス様は既に命を献げて歩み始めていたのです。十字架 に向かって歩み始めていたのです。それを現しているのが、このイエス様の言葉 なのです。 準備の時を大切に  しかし、そのような意識を持っていたイエス様がすぐに公の働きをスタートし たかと言えば、そうではありませんでした。三章に入って再びイエス様が登場し ます。しかし、それは約20年後のことなのです。イエス様の公の活動が開始し たのはその歳およそ三十の時でした。私たちが伝えられている主のお働きは、十 字架にかけられるまでの約三年ほどなのです。その期間に比べるならば圧倒的に 長いそれまでの期間が、この短い一言の陰に隠れてしまっているのです。「それ から、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになっ た」。  ヘブライ人への手紙には、そんなイエス様の歩みについて次のような表現が出 て来ます。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順 を学ばれました」(ヘブライ5:8)。ルカによる福音書によれば、その多くの 苦しみの道のりは、その御生涯の最後の一週間だけではありません。既に飼い葉 桶から始まっていたと言えます。そして、イエス様にとっては、何よりもまず、 父母のもとで一人の子供として生きる具体的な生活の場こそ、従順を学ぶ場に他 ならなかったのです。  確かに、ヨセフもマリアも敬虔なユダヤ人です。主はその敬虔な家族でお育ち になりました。しかし、そのようなヨセフもマリアもイエスに対する父なる神の 御計画は理解できなかったのです。「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分 からなかった」(49節)とあるとおりです。既に天の父との関わりを自覚し、 天の父の御心に従って生き始めているイエス様は、そのことを知らない父母と生 活を共にされた。そこには確かに多くの人知れぬ苦しみがあったと想像されます。 しかし、主はまずその父母に仕えて生きるその時を大切にされたのです。人に仕 えることを通して神に仕えることを学び、苦しみを耐え忍ぶことを通して父に信 頼しどこまでも従っていくことを学ぶ。そのような従順を学ぶ時として大切にさ れたのです。  私たちに「従ってきなさい」と言われた方は、そのような御方です。イエス様 のわずか三年の公の働きのために、そのような二十年もの従順を学ぶ備えの時が 必要であったなら、私たちにはなおさらではありませんか。私たちに与えられて いる場は、すべて従順を学ぶ場となり得るのです。人に仕えることを通して神に 仕えることを学び、人の無理解や不当な扱いや様々な苦しみを耐え忍ぶことを通 して、どこまでも天の父に信頼し、従い続けることを学ぶことができる、実に多 くの機会を与えられているのです。いわば神に用いられるために準備するための 学校に、学費も払わずに入れてもらっているのです。しかし、実際の学校におい ても不満ばかり言って授業をサボっていたら何も学ぶことができないように、神 の学校としての私たちの生活も、不平や不満ばかり言って折角の授業を無駄にし ていたら何も学べません。ろくろく準備もしようとせずに、「主よ、わたしを用 いてください」などと言っていてはならないのです。  与えられている今の時、今の場所を大切にしましょう。備えの時を大切にしま しょう。クリスマスの礼拝において申しましたように、人間の幸福は、神様と共 に歩んで、神様に用いていただくところにこそあるのです。自分の一生を誰かの ために。誰かの救いのために。神様が誰かを愛するために、自分の一生を用いて いただく。そこにこそ人間の幸福はあるのです。神様が私たちをお用いになる仕 方は、もしかしたら稲妻の一瞬の閃きのようであるかもしれません。しかし、ま さにこの「ときのために私は生まれたのだ」と言える一瞬があるならば、その人 は本当に幸福な人であると言える。その一生は永遠の意味を持つのです。  もしかしたら、私たちの人生の大部分が従順を学ぶ準備の時であるかもしれま せん。しかし、神に用いられる一瞬のための備えであるならば、例えそれが人々 の目に映ることなく、人々の記憶に残ることなく、いかなる記録にも残ることな くとも、その費やされた時は永遠の価値を持つと言えるのです。イエスの生涯の 大部分の時がそのようであったようにです。そうです。私たちが今の時を備えの 時として生きるならば、それは実に価値ある時を生きていることになるのです。 与えられている今の時、今の場所を大切にしましょう。備えの時を大切にしましょ う。