「豊かな実りを期待しよう」
2010年1月10日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 13章1節~9節
種を蒔く人として
今日お読みしましたのは、イエス様のなさった「種蒔きのたとえ」です。「種 を蒔く人が種蒔きに出て行った」。そうイエス様は語り始めます。この「種」に ついては後の方に説明がありまして、18節では「御国の言葉」と言い換えられ ています。神の言葉、救いの言葉、宣教の言葉です。この「御国の言葉」という 種を蒔く人と言えば、まずはイエス様のことでしょう。私たちはこのたとえ話を 読みます時に、まずこの「種を蒔く人」の中にイエス様を見ることができます。 イエス様は御自分のしていることを「種蒔き」として見ておられたのです。
当時の種蒔き。私たちの知っている農業とはずいぶん違うようです。先に耕し て畝を作ってから種を蒔くわけではありません。今日の標準からすれば、かなり いい加減な蒔き方です。種をつかんで畑の上に適当にばらまく。あるいは穴のあ いた種袋をロバなどに背負わせて適当に歩かせる。そうやって種を蒔いてから少 し耕します。すると種が若干土で覆われる。もちろん、適当にばらまきますから、 道の上にも落ちることがあります。そこは耕しません。ですから種が土で覆われ ることもなく、結果として鳥の餌になってしまいます。また、灌漑もしませんか ら、雨期になるまでは、種は地中の水分で育たねばなりません。石の上の種は、 芽は出るのですが、残念ながら干涸らびてしまいます。あるいは、ばらまいた種 が茨の残っている所にも落ちるでしょう。茨が一緒に伸びてくれば、そちらの方 が強いので麦は実りません。これがその頃の「種蒔き」です。
イエス様は御自分の働きを、こんな「種蒔き」として見ておられたのです。 「種蒔き」であるとはどういうことか。まず、そこには「無駄に見える労苦があ る」ということです。種を蒔いても鳥に食べられてしまう。種を蒔いても枯れて しまう。種を蒔いても実を結ばない。そういうことがあるのです。無駄に見える 労苦がある。それは種蒔きならば当たり前の話なのであって、農夫はそれを知っ ています。「ああ、損した。バカバカしい!」などとは言わないのです。
また、「種蒔き」であるとは、結果を見るまでには時間がかかる、ということ です。そういうものでしょう。種が蒔かれてすぐに芽を出すとするならば、この たとえ話にあるように、それはかえって怪しい。「土が浅いのですぐ芽を出した」 だけかもしれません。それはすぐに枯れてしまうのです。きちんと土がかかった ものが芽を出すのには時間がかかります。ましてや実りを見るとなればさらに時 間がかかる。ですから農夫は忍耐強く待たねばならないのです。それもまた「種 蒔き」ならば当たり前の話です。
しかし、イエス様の話はそれで終わりません。私たちはこれを読みますと、ど うも無駄になった種の方に目が行ってしまうのですが、実は最も大事なポイント はそこにはないのです。イエス様が本当に言いたいことは一番最後にあります。 「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、ある ものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(8節)。
「種蒔き」は収穫を期待して行うものなのです。収穫を信じて行うものなので す。確かに無駄はあります。時間もかかります。しかし、必ず実りを見る。そう 信じて種を蒔くのです。だからそこには大きな喜びもある。イエス様は御自分の していることを、そのような「種蒔き」に見ていたのです。
実際に無駄に見えることはたくさんあったことでしょう。一生懸命に神の言葉 を語り、救いの言葉を語ってもそれを頑なに受け入れない人たちがいたのです。 敵意を露わにしてくる人たちがいた。どんなに蒔いても芽を出さないのです。さ らには信じたように見えた人たちも離れていく。あの十二弟子でさえイエス様を 見捨てて逃げていくことになるのです。さらには神の言葉を語っている自分自身 も十字架にかけられて殺されることになる。しかし、イエス様には分かっていた のです。必ず芽を出すということを。実りの時が来る。三十倍、六十倍、百倍に もなる時が来る。イエス様は明らかに収穫を期待する農夫のように種を蒔いてい たのです。そして、実際にどうなりましたか。実ったではありませんか。三十倍、 六十倍、百倍、いやそれ以上に実ったではありませんか。
「種を蒔く人」--それがイエス様の意識でした。ですから、私たちもまた「種 蒔き」の意識をもって種を蒔くのです。私たちはこのたとえ話の「種を蒔く人」 の中に、イエス様だけでなく弟子たちの姿、後の教会の姿、私たち自身の姿をも 見るべきでしょう。イエス様と同じように、教会は「種蒔き」の意識をもって宣 教の業を続けていくのです。
「種蒔き」の意識を持つということは、収穫を期待するということです。無駄 に見えることに捕らわれない。時間がかかることに苛つかない。ひたすら大いな る収穫を期待して、喜びなが種を蒔くのです。この福音によって必ず人が救われ る。福音の宣教によって、この礼拝堂に天の喜びに満たされた人が溢れるように なる。私たちの家族に、この社会に、救われて喜びに満たされた人が溢れるよう になる。大いなる救いの実りを私たちは見ることになる。そのことを信じて私た ちは種を蒔くのです。
さらに言うならば、イエス様は三十倍、六十倍、百倍と言われたのですから、 救いは種を蒔かれた人に終わらない。さらにそこから広がっていくのです。木曜 日にK姉のご主人が病床洗礼を受けました。洗礼を受けて本当に嬉しそうでした。 神の救いが訪れた。喜びと平安に溢れました。そのように救いの実りはK姉の母 上からK姉に、さらにはご主人にまで及びました。蒔かれた種は、三十倍、六十 倍、百倍に実るのです。この新しい年も、大いに収穫を期待して種を蒔きましょ う。福音の種を蒔いていきましょう。
種が蒔かれる畑として
そして、さらに私たちは、この「種を蒔く人」だけでなく、種が蒔かれる「畑」 にも目を留めたいと思うのです。この「種を蒔く人」の中にイエス様を見、私た ち自身を見ることも大事ですが、私たちはまたこの「畑」の中に私たち自身を見 ることも大事です。
イエス様は四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石地、一 つは茨の中、最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実は イエス様は、互いに離れた四つの別な場所について語っておられるのではなく、 一つの畑の話をしておられるのです。道端というのは、人が通って踏み固められ た、畑の中に出来た道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑 の中です。パレスチナの写真などを見ますと、もともと畑には石がとても多いよ うです。その石を一生懸命取り除きます。それが石垣の材料となったりもします。 しかし、全部の石を取り除くことは到底出来ません。石がかなり残ります。ここ で言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。 また畑には「茨」もつきものです。深い所に根をはっています。先にも申しまし たように灌漑は行いません。ですから深く耕すこともしないのです。水分が蒸発 してしまうからです。それゆえに深い茨の根は残ります。それが麦と一緒に延び てくることは、いくらでもあったようです。
さて、この話の中に自分自身の身を置きますと、いろいろと見えてくることが あります。さらに18節以下のイエス様の解説を読みます時、とても耳の痛い話 として響いてくるかもしれません。イエス様は言われました。「だれでも御国の 言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。 道端に蒔かれたものとは、こういう人である」。すると私たちは思います。「あ あ、これはわたしだ。いつも悪魔に御言葉をもっていかれて、何にも残らない。 わたしは道端だ」。
さらにイエス様は言われます。「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を 聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、 御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」 「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言 葉を覆いふさいで、実らない人である。」どれもこれも、自分に当てはまって聞 こえるかもしれません。
しかし、先にも申しましたように、道端も石地も茨の地も良い地も、それぞれ 別の場所にあるのではなくて、一つの畑の話です。ですから、道端が永遠に道端 とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもし れません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地とな り得る、畑の一部なのです。御言葉を聞いて受け入れ、悟るならば、三十倍、六 十倍、百倍という大いなる実りをもたらす、そのような土地なのです。そうです、 私たちはそのような土地となり得るのです。そのような私たちとして、今、ここ にいるのです。キリストは、「種蒔き」の意識をもって種を蒔いておられました。 今も主は収穫を期待して種を蒔いていてくださっています。収穫を信じて、種を 蒔いていてくださっているのです。
ならば私たちは自分自身が実り豊かな者となることを期待しましょう。わたし は道端だ、石地だ、茨の土地だ、などと言って自分を見限ってはなりません。御 言葉が私たちの内に留まって芽を出して実り始めるならば何が起こるか分からな い。どんな素晴らしいことがそこから起こってくるか分からない。私たちはその ようなとてつもない可能性を秘めた畑なのです。
かつてジョン・ウェスレーというひとりの人が、全く気が進まないままに参加し たロンドンのアルダースゲートにおける集会において、蒔かれた御言葉の種が芽 を出しました。1738年5月24日水曜日午後9時15分前頃のことでした。 その時、たった一人の人間が御言葉を聞いて悟ったことは、ある意味でこの世界 を変えたのです。この人からメソジスト教会が始まりました。その実りはイギリ スからアメリカに、またカナダに広がり、そしてこの日本にまで及びました。あ の一粒の種がなければこの教会もないのです。
同じことが私たちの内に起こり得ます。繰り返します。私たちはとてつもない 可能性を秘めた畑です。私たちの内に始まる神の救いの御業は私たちの内に留ま りません。三十倍、六十倍、百倍にもなるのです。種を蒔く者として大きな実り を期待するだけでなく、種を蒔かれる畑としても、大きな実りを期待しながら、 熱心に神の言葉に耳を傾けてまいりましょう。