「目からウロコの落ちた人」
2010年1月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 9章1節~20節
「目からウロコの落ちた人」とはパウロのことです。偉大なる使徒パウロ。新 約聖書の大きな部分を書いたパウロ。彼がいなかったら後の教会はないでしょう。 しかし、そんなパウロはもともと教会の迫害者でした。神はよりによって教会の 未来に備えて、迫害者を選ばれた。それまで迫害されてきた教会に、よりによっ て神は迫害者を加えられたのです。暴力を振るわれ仲間を殺されてきた人々の中 に、暴力を振るい殺してきた人物を加えられた。そして、苦しめてきた人物と苦 しめられてきた人々が、一緒に主を礼拝し、一緒に福音を宣べ伝えるようにされ たのです。そんなあり得ないようなことが、現実のこの世界において事実として 起こったのです。
神を信じて生きるということは、あらゆる可能性に開かれた人生を生きること です。神は私たちのちっぽけな頭が考えの及ぶ範囲に留まってなんかいない。そ のことを私たちは繰り返し聖書を通して教えられます。神は往々にして、私たち の思いを超えたことを、私たちが絶対に思いつかないような方法で実現されるの です。時として最悪としか思えないことを用いて、私たちが考えもしなかったよ うなプロセスを通して、神は最善のものを手渡されるのです。その極みはキリス トの十字架でしょう。人間が神の子を十字架にかけるという最悪の出来事を通し て、神は罪の贖いを実現し、この世界に救いを与えられたのですから。そして、 私たちの思いを超えた神の行動に出会うとき、そこで私たちもまた、今まで考え たこともなかったこと、しかし本当に大切なことが見えてくるのです。今日お読 みした箇所に書かれていたのは、そんな神の御業の一例です。
迫害者サウロ
今日は使徒言行録9章をお読みしましたが、パウロ、またの名をサウロという 人が初めて登場してきますのは7章においてステファノが殺害される場面です。 「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかか り、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物を サウロという若者の足もとに置いた」(7:57-58)。
ステファノの処刑は、7章の記述を読む限り、明らかにリンチです。合法的な 処刑などではありません。しかし、ここに「証人たち」について書かれているこ とは注目に値します。律法に定められている通り、まず証人が最初の石を投げた のです。少なくとも形においては、ステファノの殺害を、合法的な処刑の形式で 行ったということです。そこには彼らの正義の主張があります。それはあくまで も彼らの正義に基づいての処刑だったのです。
ステファノが石で打たれて血みどろになって死んでいくのを冷静に見守り、こ れに賛意を表明していたのが、このサウロという人でした。「サウロは、ステファ ノの殺害に賛成していた」(8:1)と書かれています。なんと残酷なことか、 と私たちは思います。しかし、このサウロという人も石を投げつけていた他の人々 も、いわゆる悪人やならず者ではありません。恐らくそこにいたほとんどの人は 最高法院の議員なのです。人々の尊敬を集める指導者たちです。律法を守り秩序 を大切にする正しい人々です。
本当に残酷なことは、この世の悪人においてではなく、この世の正しい人々に おいて現れるものです。というよりも、本当に残酷なことは、正義の名のもとに しか為され得ないと言った方が正確かもしれません。人間は自分の悪を知りなが ら積極的に残酷にはなれないものです。人と人との間でも、国家と国家の間にも 言えることです。いじめにせよ、殺人にせよ、戦争にせよ、テロにせよ、そこに はそれなりの正義の理論がある。正義の理論がある時に、人は自らの残忍さに気 付かないまま、残酷なことをするのです。本当の罪深さは罪深いと思わないで罪 深いことをしているところにあるのです。
ステファノの殺害に賛成していたサウロは、徹底的に教会を迫害し始めました。 「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出し て牢に送っていた」(8:3)と書かれています。そして、ついに彼は迫害の手 をシリアのダマスコにまで伸ばします。今日お読みした箇所には次のように書か れておりました。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気 込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、 この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行す るためであった」(1-2節)。
迫害するのも楽ではありません。そこには相当な労力が要求されます。しかし、 サウロは労をいとわずダマスコにまで向かおうとしていたのでした。正しいこと をしていると信じていたから。正義のための行動には喜びが伴います。それがた とえどんなに残酷な行為であっても、正義のための行動には喜びが伴う。そこで 人は自分の存在意義を見出します。生きている実感を手にします。ですから、人 はそこで労苦を惜しみません。
しかし、神様はサウロが正義の闘士としてダマスコに到着することをお許しに なりませんでした。キリストが彼の行く手を阻んだのです。キリストがサウロを 打ち倒されたのです。次のように書かれています。「ところが、サウロが旅をし てダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは 地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を 聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、 あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのな すべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿 も見えないので、ものも言えず立っていた」(3-7節)。
パウロは地に打ち倒されました。そして、パウロが再び立ち上がった時、パウ ロの目は見えなくなっておりました。彼は人々に手を引かれてダマスコに向かう ことになったのです。彼の体験は実に象徴的です。そこで打ち倒されたのは、自 分がしっかりと立っていると信じて疑わなかったパウロなのです。これまで自分 自身が正しい者の側に立っていると信じ、他者を裁いて死に至らせていた人間が、 そこで打ち倒されたのです。そして、そこで盲目にされたのは、自分には正しい ことが見えていると信じていたパウロなのです。パウロは何も見えなくなった時、 実は、その暗闇こそがこれまでの人生であったことに気付いたに違いありません。 見えていたと思っていたけれど、実は見えていないままに、とんでもないことを してきたんだと。
しかし、打ち倒されて見えなくされて、暗闇の中に置かれて、それで終わりで はありませんでした。彼はそこで声を聞いたのです。「サウル、サウル」と彼の 名を呼ぶ声を聞いたのです。キリストが呼んでくださっている声を聞いたのです。 それはパウロが迫害してきたキリストでした。しかし、それはまたパウロのため にも十字架にかかられたキリストなのです。パウロが耳にしたのは、彼の罪を赦 し、もう一度立ち上がらせ、彼に未来を与えようとしておられるキリストの声だっ たのです。
そのように神は人が思いもよらない仕方で、パウロの人生に入ってこられまし た。そして、人間の思いを遙かに超えた赦しと救いを与えられたのです。しかし 考えてみれば、そのように人間の思いを超えた仕方で神が行動されたのは、私た ちに対しても同じではありませんか。だから私たちは今ここにいるのでしょう。
主によって備えられた出会い
しかし、神が人の思いを超えた仕方で行動なされる時、全てを御自分でなさろ うとは思われないようです。その中に人間を取り込んでいかれる。神は人の思い を超えた仕方で、人間を用いられるのです。
主はダマスコにいるアナニアという弟子にも、幻の中に現れました。主が「ア ナニア」と呼びかけられると、アナニアは「主よ、ここにおります」と答えます。 すると、主は驚くべきことを彼に命じられました。「立って、『直線通り』と呼 ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ね よ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、 元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」(11-12節)。
思いも寄らぬ仕方で二人の人間が出会います。もっともここに書かれているよ うに、幻の中で相手が指定されるというような仕方で二人の人が出会うことは、 そうそう誰もが経験することではないでしょう。しかし、全く予期しなかった出 会いが、まさに主によって準備されたとしか言いようのない仕方で与えられると いうことは、確かに私たちのしばしば経験するところではありませんか。
そのように主によって備えられ、与えられる出会い。当初は必ずしも望ましく 思えないものもあるものです。「よりによってなんでこんな人と一緒にいなくて はならないの」。「なんでこんな人と関わらなくてはならないの」。そう思わず にはいられないこと、ありますでしょう。アナニアにとってサウロは決して「出 会いたかった人」ではなかったのです。関わりたかった人ではなかったのです。
アナニアには、サウロを拒否すべき、ありとあらゆる理由がありました。ダマ スコには、エルサレムから逃れてきた多くの人々がいるのです。アナニアの周辺 には、この憎きサウロによって仲間を殺され、平和な生活を奪われた、数多くの 人々がいるのです。アナニアはそのような人たちの話をたくさん聞かされてきた に違いない。そして今や、アナニア自身にも迫害の手が伸ばされようとしている のです。そのような男のもとへなど行きたいはずがありません。
当然のことながら、アナニアは抵抗いたします。このサウロがいかなる人物で あるかを主に説明して、主の導きに対して不平を申し述べるのです。しかし、主 は、「行け」と言われます。その理由は単純でした。「あの者は、異邦人や王た ち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器であ る」(15節)と主は言われるのです。その人の過去がどうであれ、その人とな りがどのようなものであれ、彼は主が選ばれた器なのです。「わたしが選んだの だ。」--それ以上の理由は与えられません。それで十分なのです。そして、主は 「行け」と言われる。アナニアはサウロのもとに赴きます。そして、彼の上に手 を置いて言いました。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださっ た主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされ るようにと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)。
「兄弟サウル」--かつての迫害者サウルを、アナニアはそう呼びました。アナ ニアが特別に寛容な人だったからではありません。こうして出会わせてくださっ た神の選びと御計画を受け入れたのです。主がサウロを選ばれ、彼に務めを託さ れ、彼を教会に与えられたのです。主がサウロを、アナニアのまことの「兄弟」 とされたのです。その事実を、アナニアは主の御前で受け止めたのです。言い換 えるならば、アナニアは、神の為さることが人間の思いを超えていること、神様 の御計画が人間の想像を遙かに超えていることを受け入れたということです。今 はよく分からないけれども、確かに神は私たちが想像もしない仕方で良きことを なさっている。そう信じて、主に信頼して従ったのです。信仰によって、アナニ アはパウロに呼びかけました、「兄弟サウルよ」と。
サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりました。 サウロは身を起こして洗礼を受け、主の教会に加えられました。しかし、ある意 味では目からうろこが落ちたのは、アナニアも同じであろうと思います。かくし て、迫害してきた者が迫害されてきた者たちと共に、主を礼拝し、主に仕え、主 を宣べ伝えることとなりました。そのように、人間の思いを超えた神の御業が一 方にあり、そのような自分の考えを超えた神の御業を受け入れる人間の信仰がも う一方にある。それが一つとなって、神の救いの御業は目に見える形で実現して いくのです。神様の素晴らしい御業が、私たちの思いを遙かに超えた救いの御業 が進行中です。信じて、期待して、私たち自身を捧げ、従ってまいりましょう。