1 「我らの目を開きたまえ、主よ」 ルカ12・13-34 列王記下6・15-17 カンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会 荒瀬牧彦牧師  旧約聖書の列王記下6章に、興味深い物語がある。 アラムとイスラエルがたびたび武力衝突を繰り返していた時代、預言者エリシャ はアラムの攻撃を予見して、イスラエルを危機から救ってしまうため、アラムの 王が怒ってエリシャを捕らえようとする。エリシャがドタンという町に滞在して いる時、夜のうちにアラムの大軍勢が街を包囲する。起きてみると、軍馬や戦車 に囲まれているので、召使いはうろたえてしまう。するとエリシャは、「恐れて はならない。わたしたちと共にいる者のほうが、彼らと共にいる者より多い」と、 不思議なことを言い、そしてこう祈るのだ。「主よ、彼の眼を開いて見えるよう にしてください」。  主が召使の眼を開くと、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのが 見えた。反対に、相手は目をくらまされて、敵国であるサマリアの中にはいって きてしまう。気がつくと敵のただなか。でも、そこで皆殺しにするのではなくて、 大宴会をもよおして、飲み食いをさせたあと、帰してあげた。すると、もうアラ ムは攻めてこなくなった。  表面的に見れば、エリシャ絶体絶命という現実があった。しかし神は、一方で 召使の目を開いて神の軍勢がエリシャを囲んでいるという霊的な真実を見せ、他 方でアラム軍の人々の目をくらまし、エリシャのコントロールのもとにおいた。 おもしろい!聖書には、私たちに今までと異なる絵を見せる、という力があると 思う。  さて、そこで、今日の聖書箇所、「愚かな金持ちの譬え」である。  主イエスは遺産相続の問題で悩んでいる人から、「自分にも遺産を分けるよう に兄弟に言ってください」という依頼を受けた。なんでイエス様にそんなこと頼 むのかと疑問だが、質問者の頭の中は、遺産相続問題でいっぱいだったのだろう。 「普通のラビではだめだ。最近評判のイエスという人なら、強力な弁護士になっ てくれるかもしれない」と思ったのだろう。つまり、イエス様が説教しておられ た「神の国」なんてまるで関心がない。彼の関心は金である。財産が自分に分け てもらえないという不満と不安がどんどん大きくなり、それこそが人生の最重要 問題となっていたのである。その人の目を開いて、異なる絵を見せるために、イ エスはこの譬えを語った。  単純な譬えである。金持ちの畑が豊作だった。しまっておく場所がない。さて どうしようか。もっと大きな倉を建てて、そこに穀物や財産をみなしまおう。そ して自分に言おう。「さあ蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりし て楽しめ」。  これはよくある話ではないだろうか。思いがけない財産がはいった。これから 先の生活の心配はなくなった。さあ楽しもう。これは当たり前の発想ではないか。  しかし、この人の発言を注意深くみると、一つのことに気が付く。それは特に ギリシャ語原文で読んでみると明らかになる。  はっきりさせるために、あえて直訳してみよう。「わたしはどうしよう。わた しの収穫をわたしが納めるべき場所をわたしは持っていない。・・・こうわたし はしよう。わたしはわたしの倉をこわし、わたしはより大きい倉を建てよう。そ してわたしはそこにわたしの全穀物と全財産を納めよう。そしてわたしはわたし の魂にいおう。」  この人にとって、豊作があったというのは、はじめから終わりまで「わたしの」 できごとだった。「わたしの収穫」を、「わたしの倉」にいかにおさめるか、と いうこと。彼の言葉はすべて、自分に語りかける独白だ。そこに神様への祈りは ないし、周囲の人間への相談もない。彼の視野の中には、神様と隣人がはいって いないのだ。彼は完全に自分のために生き、自分にだけ語り、自分を祝福する。 そのきわめつけは、19節の「こう自分の魂に言おう」。(新共同訳では「こう 自分に言ってやるのだ」だが、原文ではプシュケーという言葉がある。20節の 「命」も同じプシュケー。)  自分の「魂」に安心を宣言すること。イエスはこのことの危険を示唆している のだ。単にひとりごとを言っているということではない。大金を得た人が、「あ あこれで安心だ」という、誰だって口にしそうなその言葉の中に、金銭や富とい う、実はあてにならないものに「魂」を売り渡してしまっている傲慢さ。そして その愚かさ。倉がいっぱいになったということをもって、自分の命が安全保障を 受けたと自分で自分の魂に宣言する。そんなこと人間にできるわけないのだ。人 間は神ではない。  豊作は誰によって、何のために与えられたのか。神が与えてくださった。彼の 倉だけを満たすためではなく、彼を通して世界を祝福するためではないか。それ なのに、彼は収穫が「わたしたち」に与えられたものであることを無視している。 そんな彼に、神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と宣言する。  譬えの中の登場人物として神様が出てくるのはこの譬えだけだ。なぜ神様が直 接出てくるかというと、死を宣告するという、人間では誰も演じることのできな い役割があるからだ。命は神のご支配のもとにある。そのことを、愚かな金持ち は忘れていた。  「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならないものはこのとおりだ」。 これはおそろしい言葉だ。イエスは人間を脅しているのだろうか。そう、ある意 味で脅しているのだ。しかしそれは、違う絵を見せることによって、人間を錯覚 から解放し、命の道を歩ませるためである。 皆さん、トリックアートというのをご存知だろうか。日本では、観光地の客寄せ として、トリックアート美術館があちらこちらに建てられた。日本語では「だま し絵」という。有名なものに、エッシャーの無限階段などがある。  シェパードの「恐怖の洞窟」という絵がある。トンネルの奥からこちらにむかっ て、化け物のようなおそろしい人間が二人駆けてくる絵だ。手前にいる人は小さ く、奥にいる人は明らかに大きく見える。奥のほうにいる人のほうが1.5倍ぐ らい大きく見える。でも、物差しではかってみると、二人はまったく同じ大きさ である。信じられない。手前のほうがずっと小さく見える。  なぜそう見えるかというと、我々が遠近法の絵に訓練されているからだ。遠近 法では、近くにあるものを大きく描き、遠くにあるものを小さく描く。これが我々 の頭にインプットされているので、脳の中で大きさの補正をして、無意識のうち に再構成をしているらしい。 安土桃山時代に「南蛮画」という絵が盛んに描かれた。日本人の絵師が西洋の絵 を真似して、西洋の風景を描いたものだ。その一つに、居眠りしている羊飼いの まわりに羊たちが描かれているものがあるが、羊たちが子猫ぐらいに小さくて、 とても奇妙である。なぜそう描いたのか。その絵師の見た西洋の絵には、遠くの 草原を歩いている羊が描かれていた。本物の羊を見たことがなかった彼は、それ が遠近法のゆえに小さく描かれているということを理解しなかった。だから羊と いうのは猫より小さい動物だと思ったのだ。彼の目には自動補正がかからなかっ たということだ。  我々はふだん無意識で絵を見ているようだが、遠くのものが小さく描かれてい る絵をみたときには、自分の脳で、「あれは遠いから小さくかいてある、実際は 大きいのだぞ、手前にもってくればこれぐらい大きいぞ」と、自分の理解によっ て再構成している。トリックアートというのは、そういう無意識の再構成の逆を ついてくる仕掛けだ。「だまし絵」というけれど、ありもしないものをあるよう に見せて「だます」のではない。我々が無意識に作りあげてしまっている世界理 解の「常識」をゆさぶってくれるのだ。「本当にそうなんですか?そういう絵を あなたの頭の中に作っているだけではないですか?」とチャレンジしてくるのだ。  「愚かな金持ちのたとえ」は一つのだまし絵と言えるのではなかろうか。それ はもちろん、私たちを偽りによって欺くトリックではなくて、むしろ反対に、 「あなたが見ている絵は真実ですか。錯覚を抱いているのではないですか。ない ものを、あたかもあるように見てしまっているのではないですか」と問いかける、 いわば「逆だまし絵」である。  お金があるから、蓄えがあるから、家があるから、わたしの魂は安泰だ。そう 自分で自分に安全保障をすることなど誰にもできない。物質的な豊かさも、もち ろん良いものだ。でもその物の存在に確かさがあるのではない。確かさは、豊作 を与えてくださった神様から来る。神様との関係こそ、わたしの魂に確かな安全 を与えてくださるものだ。  ヨハネの黙示録3章17節にこうある。 「あなたは『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない』と 言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者 であることが分かっていない」 イエス様は続けて、もう一つ違う絵を見せてくださる。 さあ見てごらん。あの烏を。  烏は今も嫌われ者だが、あの時代もそうだった。烏を大事にしてエサをやる人 などいない。追い払われる側の鳥だ。見てごらん、あのカラスを。納屋も倉もな い。土地もない。銀行に貯金もない。年金もない。だけど、神は烏を養ってくだ さっているではないか。  さあ見てごらん、野原の花がどう育つかを。これは雑草の花である。花壇に大 事に作ってもらう花じゃなくて、草刈をしたら刈られて燃やされてしまうような、 どこにでも勝手に生えてる植物だ。でもその花が、ソロモン王の絢爛豪華さにも 負けないほど美しく咲いている。神様がこんなに美しく装ってくださっているで はないか。「まして、あなたがたにはなおさらのことである。」  この「まして、あなたがたにはなおさらのこと」という言葉にこめられた思い の深さをしっかりと読み取りたい。これは、よく批判されるように、人間優越、 自然支配の思想を言っているのではない。この言葉を言ったのが誰であるのか。 何をした方なのかを考えなければならない。  主イエス・キリストが言われたのだ。罪の奴隷となって苦しんでいる人間を救 うために、苦しみを担い、十字架の死を引き受けたイエスが言っているのだ。ひ とりひとりの人間をとことんまで愛するイエスが言っているのだ。人格と人格の 深い関係をもって愛されている「あなたがた」なのだ。烏をまもり、野の花を美 しく装う神が、独り子をお与えになるほど愛しているあなたがたを、どうして放っ ておくことがあろうか。  食べ物、着る物、倉にどれだけ蓄えるか。それは心配しなくてよい。神様が配 慮してくださるのだから。あなたは神の国を求めなさい。神の国とは、神の支配 のことだ。神の愛によってこの世界が新しくされることを求めなさい。神の義が この地になることを求めなさい。神の国と神の義が軽んじられていることをこそ 憂いなさい。あなた自身のことは神様が心配してくださるから大丈夫だ。  烏を見る、野の花を見る、というのは、そこにある神様の愛、神さまの支配を 見るということ。イエス様が「ごらんなさい」というのだから、素直にその絵を 見ようではないか。それはこの世界を「より深くみる」ということだと思う。イ エス様に目を開いてもらって、エリシャの召使のように、現実を深く見るのだ。  イエス様が見せてくださる絵は、この世の財産によって安心しきっている人を あわてさせる。「神の前に豊かになるため」の心配を起こしてくださる。  そして一方、資産などない人、「お金で安心を買えない人」、自分で自分の命 をどうにもできないという不安のなかにある人には、大きな安心を与えてくださ る。 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。