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「なぜ怖がるのか」

2010年2月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 4章35節~41節

むこう岸へ渡ろう

 「向こう岸へ渡ろう」。そうイエス様は言われました。「向こう岸」ってどこでしょう。5章の始めにこう書かれています。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(5:1)。「向こう岸へ渡ろう」。そう言ってイエス様が指さしていたのは、なんと異邦人が住む土地だったのです。5章を見ますと、その地域の人々は豚を飼っていることが分かります。ユダヤ人は豚を食べません。豚は汚れたものとされているからです。要するに、イエス様が指さしている「向こう岸」は、一般的なユダヤ人の感覚からすれば、汚れた人々が汚れたことをして生活している汚れた土地だったのです。

 なぜそんなところにわざわざ渡らなくてはならないのでしょう。そもそもその夕べは雲行きが怪しかった。後に「激しい突風が起こり」と書かれているとおりです。弟子たちの内ある者たちは漁師です。ガリラヤ湖のプロです。舟を出すにふさわしい夕べであるかどうかぐらい分かるはずでしょう。向こう側へ向かって舟など出さず安全なところに留まっている方が良いに決まっている。しかも、こちら側では既にイエス様の名が知れ渡っているのです。湖の畔で教え始めると、おびただしい群衆がそばに集まってくる。宣教の働きは、ある意味では順調に進んでいるのです。このまま同じことを続けていたらよいように思える。そんな時に、なぜ会いたくもない人々が住んでいるゲラサ人の地方に行かなくてはならないのでしょう。

 どう考えても、弟子たちは気が進まなかったに違いない。しかし、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言われるのです。弟子たちが留まっていたくても、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言って、向こう岸を指し示すのです。ここを読みますと、改めて、「ああ、こういうことって確かにあるな」と思います。自分としては留まっていたい。このままでいたい。今のままで結構。しかし、イエス様は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 この福音書が書かれた頃、教会には多くの異邦人キリスト者がいました。しかし、初めからそうだったのではありません。イエス様はユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。あのパウロもユダヤ人。当初は教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、言うまでもなくある時から異邦人伝道が始まったからです。それがなかったら日本人キリスト者などいないはずなのです。そのように、ある時から異邦人への伝道が始まった。それはまさにイエス様の「向こう岸へ渡ろう」だったのです。

 考えてみてください。もともとユダヤ人は異邦人とは一緒に食事はしなかったのです。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってくるのです。また当然、全然馴染みのない習慣やものの考え方も入ってくる。感じ方も違う。そういう人たちと共にいることになる。当然、教会の雰囲気そのものも変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、イエス様は言われたのでしょう。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会はイエス様に従った。それゆえに異邦人である私たちも福音に出会うことができたのです。

 主は私たちにも言われます。「向こう岸へ渡ろう」と。私たちはいつだって安全なところに留まりたいと思う。自分たちの慣れ親しんだところ、今までの慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟を出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものとは関わりたくない。しかし、イエス様は先へと、向こう岸へと行こうとされる。お一人ではなく、私たちと共に。ですので、私たちに言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

まだ信じないのか

 さて、そのように自分の安全地帯から踏み出すならば、当然、困難に直面することも起こり得ます。舟を出すからこそ嵐に遭うわけでしょう。岸に留まっていれば嵐には遭わないのです。「向こう岸へ渡ろう」と言われた弟子たち、言われるとおり舟を出しました。イエス様と一緒に船出します。するとどうなったか。激しい突風が起こったのです。舟は波をかぶって、水浸しになるほどであったと言うのです。嵐に巻き込まれ、命の危機にさらされることになるのです。

 この物語を読んでいますと、旧約聖書に出てくる一人の人物を思い起こします。それはモーセです。彼は八十歳の時、神の呼びかけを聞きました。彼はミディアンで羊飼いをしていたのです。それなりに平和であり幸せだったのです。そこには慣れ親しんだ生活があり、そこにいれば安全だったのです。しかし、神は彼にとてつもないことを要請されました。いわば、モーセに渡るべき「向こう岸」が示されたのでした。それはエジプトに戻っていき、イスラエルの民をエジプトから連れ出すことであります。

 あの主の弟子たちがそうであったように、モーセにも神の要請を断る十分すぎるほどの理由がありました。それゆえモーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。しかし、モーセと神との長い押し問答の末、彼は神に従いました。彼は兄アロンと共にファラオのもとに行ってこう告げます。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(出エジプト記5:1)。

 モーセは神に従いました。漕ぎ出すべきところへ漕ぎ出したのです。さて、結果はどうなったでしょうか。エジプト王は怒って、イスラエルの人々の労役を非常に重くするのです。イスラエルの労役の責任を負っていた下役たちは、「自分たちが苦境に立たされたことを悟った」(同19節)と書かれております。結局、モーセは助けようとしたイスラエルの人々から、かえって非難される結果となりました。下役たちはモーセとアロンに言います。「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(同21節)。

 漕ぎ出した先には嵐が待っていました。その時モーセは神にこのように訴えます。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」(同22‐23節)。

 さて、このモーセの言葉。嵐の中で弟子たちの発した言葉に似ているように思いませんか。弟子たちも、眠っているイエス様にこう叫んだのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 あのモーセの言葉にしても、あの弟子たちがイエス様に向かって発した叫びも、私たちにとって馴染みの深い言葉でしょう。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。私たちもまたしばしばこう叫びます。私たちの目から見ると、イエス様が私たちの現状に対して、全く関心を持っておられないように見える時があるのです。まさに、この物語のキリストのように、一人で眠っておられるように見える時があるのです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 しかし、神様が「御自分の民を全く救いだそうとされない」ように見えたとき、実はそうではなかったのです。モーセが嘆いていたまさにそのとき、神が何もしていないかのように見えたその時、神は着々と救いの準備を進めておられたのです。また、イエス様が眠っておられた時、「おぼれてもかまわない」かのように見えた時、たいへん逆説的ですが、そのキリストの姿は天の父がまさに生きて働いておられることを示していたのです。天の父が支配しておられ、動いておられるからこそ、御子なるイエス様は安心して眠っていることができたのでしょう。その姿こそが、まさに神の支配のしるしだったのです。神は圧倒的な力をもって生きて働いておられる、と。

 結果的に見るならば、イエス様が奇跡を起こして弟子たちを救ったという話となっています。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(三九節)。しかし、イエス様の奇跡によって助かったという結果そのものだけに目を留めていてはならないのです。もし、それが一番大事なことであるならば、その後にイエス様はこう言われたことでしょう。「あなたたちは嵐から救われた。もう大丈夫だよ。心配することはない。」しかし、主はそう言われないのです。主は弟子たちにこう言われたのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 「なぜ怖がるのか」と言われるということは、本当は怖がる必要などなかったのだよ、ということです。風がやんで凪ぎになったから怖がる必要ないのではなくて、まだ突風が吹いているときでも、波をかぶって舟が沈みそうになっているそのときでも、本当は怖がる必要などなかったということです。なぜなら、そもそも「向こう岸へ渡ろう」と言われた主の言葉に従って舟を出したのなら、嵐に遭おうが、波をいくらかぶろうが、風と湖さえも従わせる神の子と共にいるのですから。嵐が吹こうが、波が押し寄せようが、主と共に向こう岸に着くのです。神が実現なさるのです。ですから主は言われたのです。「まだ信じないのか」と。主は弟子たちに信仰を求めておられたのです。凪ぎになったから信じるのではなくて、凪ぎになる前であっても信じることを求めておられたのです。共におられるイエス様を、そして主が指し示しておられる天の父を。弟子たちにとって本当に必要なことは、単に嵐から救い出してもらうことではなかったのです。そうではなくて、嵐の中にあってもなお主を信じる者となることだったのです。

 
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