「開かれた救いの扉」
2010年4月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 16章1節~8節
開かれた出口
イースターおめでとうございます。今日一日、地球が自転するに従って、キリ ストの復活を喜び讃える歌が世界を一巡することになります。世界中の教会で祝 われるイースター(復活祭)。そのルーツである出来事を伝える聖書箇所を先ほ どお読みしました。あの朝、キリストが葬られた墓で起こったあの出来事です。
マルコによる福音書が伝えるところによれば、あの朝早く、夜が明けるとすぐ に、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人はイエス様が葬られた 墓に向かいました。イエス様の遺体に油を塗るためでした。イエス様を墓にお納 めした時には香油を塗ることさえできなかったのです。日が沈んで安息日に入る 前に急いで葬らなくてはならなかったからでした。彼らはそのままイエス様の遺 体が腐敗していくことにいたたまれず、とにかく安息日が明けるのを待って油を 塗りに行ったのです。
しかし、それはある意味で全く無謀な試みでした。というのも、墓の入り口は 大きな石でふさがれているからです。「石は非常に大きかった」と今日の箇所に も書かれています。それを女性三人で動かせるはずがありません。それは彼女た ちにも分かっていました。ですからこう語り合っていたのです。「だれが墓の入 り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」。そう「あの石」。葬られる時に 彼女たちは墓にいましたから、確かにそれがどれほど大きな石であるかを見てい ました。ところが、墓に着いて目を上げてみると、「あの石」は既にわきへ転が してありました。それが今日の聖書箇所に書かれていることです。
「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と言っていた 「あの石」が転がされていた。つまり墓の「入り口」が開かれていたということ です。彼らは不思議に思ったかもしれませんが、ともかくは「入り口」が開かれ ていたことを喜んだことでしょう。心配が一つ消えたのですから。そのまま難な く入ってイエス様の遺体に油を塗ることができます。しかし、すぐに彼らは知る ことになります。「入り口」が開かれたのではなかった。そうではなくて「出口」 が開かれたのだということを。(ちなみに、彼女たちが口にした言葉は「入り口」 をも「出口」をも意味する言葉です。)
彼女たちは、墓の中に一人の若者がいるのを見ました。彼は言いました。「驚 くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、 あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所であ る」(6節)。そう、イエス様はもうそこにはおられない。出て行かれたのです。 あの墓の石がどけられたのは、彼女たちのために「入り口」が開かれたのではな くて、イエス様のために「出口」が開かれたということだったのです。
しかし、考えてみれば、復活したキリストが出るためならば、必ずしも「出口」 が開かれる必要はありません。聖書の他の箇所を見ますと、例えば家の戸に鍵を かけて閉じこもっている弟子たちのところに、復活したイエス様が現れたという 話が書かれています。家の扉を閉ざしていようが鍵をかけていようが、復活した キリストには関係ないのです。ならば墓の出口がわざわざ開かれなくても、復活 したキリストは出ることだってできるはず。なぜわざわざ墓が開かれたのでしょ うか。なぜ「出口」が開かれたのか。明らかに人間に見せるためでしょう。彼女 たちに。そして弟子たちに。さらにはそのことを伝えさせるためであるに違いあ りません。
墓の中にいるのは誰
ですから、実際、二千年も経った今日まで、ここにいる私たちにまで伝えられ ているのです。それが見せられ、伝えるようにされたのは、そこに伝えられるべ き重大なメッセージがあるからに違いありません。あの朝、墓の「出口」が開か れた。墓の入り口を開くことなら人間だってできます。これまで幾度も納骨式を 行ってきましたが、その時には墓の入り口を開くのです。しかし、あの時にはし かし、そうではない。キリストは墓の出口を打ち開いてくださったのです。すな わち「死からの出口」を開いてくださったということなのです。つまり、もはや 人は死の中に閉じこめられている必要はないということです。それがあの朝、私 たちのために起こったことなのであり、私たちに伝えられているメッセージなの です。
ところで、「死の中に閉じこめられる」という表現を使いましたけれど、その 言葉で皆さんはいったい誰のことを考えますでしょうか。既に亡くなった人たち のことでしょうか。既に墓に葬られた人たちのことでしょうか。いいえ、そうで はありません。死によって閉じこめられているのは、必ずしも死んだ人だけでは ありません。生きている人もある意味では同じなのです。私たちの人生は生きて いる間から、明らかに既に死によって限界づけられています。閉ざされているの です。いわば墓は私たちがやがて最終的に入るところではなく、私たちの人生そ のものが既に墓の中にあるとも言えるのです。
もちろん、そのようなことを常々意識しているわけではありません。しかし、 意識してようがいまいが、死の中に閉じこめられているという事実は、生活の端々 に確実に現れてくるものです。私たちは失敗を恐れます。なぜですか。際限なく やり直しができるわけではないことを知っているからでしょう。過去の過ちが人 生に暗い影を落とします。やり直しが利かないことがいくらでもあることを知っ ているからでしょう。人生にはタイムリミットが確かにある。その限界を考える ならば、崩れてしまったら、もう積み上げることはできない。壊れてしまったら、 もう二度と作れない。そのようなことがいくらでもあることを私たちは知ってい ます。ですから、しばしば過去の罪の重荷を延々と引き摺って生きることにもな るのです。人生の限界の中ではもはや償い得ないことがいくらでもあることを知っ ているからです。
そのように、人間は罪と過ちを繰り返しながら、それを償うこともできず、や り直すこともできず、確実に人生の終わりに向かっていき、そして多くの罪の負 い目を抱えたまま人生の終わりを迎える。一人の罪人として死を迎える。その現 実には出口がありません。人間はどうすることもできない。それが死の中に閉じ こめられているということです。
しかし、あの日、あの朝、三人の婦人たちは出口の開かれた墓を見たのです。 開かれた墓の出口。開かれた死の出口。開かれた救いの扉。まさにあの朝、三人 の婦人たちが目にしたのは、そして世々の教会が伝えてきたのは、その出口が確 かに開かれた、キリストによって開かれたという事実なのです。そのようにして 救いの扉が開かれたという事実を教会は伝えてきたのです。言い換えるならば、 人はもはや死に閉じこめられて生きる必要はなくなったということです。もはや 私たちの人生は暗い墓の中に閉ざされている必要はないのです。出口は開いてい るのですから、誰でも復活の朝の光の中に歩み出すことができるのです。
十字架につけられたキリストの復活によって
ならば、キリストが復活して墓から出られたように、私たちもまた墓から出て 朝の光の中を歩み出すには、どうしたらよいのでしょう。ここであの若者の言葉 をもう一度聞いてみましょう。とても大事なことを口にしていますから。彼はこ う言いました。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイ エスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。 お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの 方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこで お目にかかれる』と」(6-7節)。
墓に座っていたあの若者ははっきりと告げたのです。復活したのは、あの十字 架につけられた御方であるということ。三人の婦人たちも確かにその目で見た十 字架につけられた御方、十字架の上で惨めに死んでいった御方、あのナザレのイ エスが復活なさったのだ、ということ。人間を閉じこめていた死の扉を打ち破り、 それを開かれた救いの扉となさったのは、間違いなく、あの十字架につけられた ナザレのイエスであるということを、あの若者は語っているのです。
あの御方の十字架における死によって救いの扉が開かれた。どのようにして? 彼女たちはまだ知りません。しかし、後に明らかにされることになるのです。あ の十字架は世の罪を贖う犠牲に他ならなかったということを。イエス様は罪の贖 いとして死ぬことによって、私たちに罪の赦しをもたらしてくださったのです。 私たちが赦された者として、神に顔を上げ、神と共に生きられるようにしてくだ さったのです。本日の第一朗読では、アダムとエバが主なる神の顔を避けて、園 の木の間に隠れた箇所が朗読されました。そうです。あれがこの世の姿であり、 人間の姿です。しかし、もう神の顔を避けなくてよいのです。木の間に隠れなく ていいのです。神の愛の中に飛び込んでいいのです。罪の赦しが十字架によって 与えられているのですから。そのようにして罪が赦された者として神の愛の内に あるならば、永遠なる神と共にあるならば、もはや死は私たちを閉じこめること はできないのです。
既に十字架によって罪の贖いは成し遂げられました。救いの扉は開かれました。 出口は開かれました。ならば墓の外に出て朝の光の中を歩き始めるために必要な のは、十字架によって与えられた恵みを受け取ることなのです。十字架による罪 の赦しを受け取ることなのです。そして、私たちのために十字架におかかりくだ さり、そして復活されたキリストに従っていくことなのです。ちょうど、ガリラ ヤにおいてあの弟子たちが神の赦しをいただいて、再びキリストに従い始めたよ うにです。その時、もはやその人は死の中に閉じこめられてはいないのです。
今日、そのことを最もはっきりと見ることができるのは洗礼式でしょう。本日 の第二朗読ではローマの信徒への手紙が読まれました。「わたしたちは洗礼によっ てキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリス トが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新し い命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。パウロはこのように洗礼を「キ リストと共に葬られる」こと、そして、キリストが復活したように「新しい命に 生きる」ことであると語っています。人は死の束縛から解き放たれて新しい命に 生き、復活の光の中を生きることができるのです。一月始めに病床洗礼を受けら れたK兄。余命の長くないことを告げられていた兄弟が洗礼を受け、十字架の恵 みにあずかった時、兄弟が口にしたのは心からの「安心しました」という言葉で した。それから召されるまでの約一ヶ月間、彼は決して死の中に閉じこめられて いる人ではありませんでした。確かにその姿は復活の朝の光の中を生きている人 の姿でした。
そして、同じことがこの礼拝でも起こります。今日、二人の人が洗礼を受けら れます。彼らもまた十字架の恵みを確かに受け取り、新しい命に生き始められま す。これからも生きている限り、辛いことも悲しいこともあるかもしれません。 しかし、少なくとも彼らは閉じこめられている人ではありません。復活の朝の光 の中をキリストの後について歩いて行くのです。