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「心にかけていてくださる神」

2010年4月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙一 5章6節~11節

悪魔に抵抗しなさい

 「身を慎んで目を覚ましていなさい」(6節)。今日の第二朗読で読まれまし たペトロの手紙にそう書かれていました。「身を慎んで目を覚ましていなさい」。 ――「身を慎んで」とは、「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉 です。その反対は熱狂であり陶酔です。そうなってはならない。醒めていなさい。 その理由が書かれています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子の ように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)。それが理由です。

 今日の一般的な感覚からすれば、これは奇異に聞こえるかもしれません。例え ば皆さんが誰かに「悪魔がライオンのように歩き回っているんですよ」という話 をしたら、その人はどう思うでしょう。恐らくその人はあなたを狂信的な人か現 実から少々遊離している人と見なすでしょう。とても冷静に物事を考える人とは 見てくれないに違いありません。

 しかし、ここでペトロが言っていることこそ、まさに冷静で醒めているために 必要なことなのです。なぜでしょう。実際、私たちが人と人との戦いに呑み込ま れ、憎しみや怒りに翻弄されててしまうということは起こるからです。あるいは 苦難そのものとの戦いに呑み込まれ、嘆きと悲しみに支配されて、本当に大切な ことが見えない、聞こえない、適切に考えられない状態に陥ってしまうというこ とは起こるからです。

 この手紙の読者は迫害の中にある人々です。他の人たちから苦しめられている 人たちです。そのような状況に置かれたら、どうしても自分に不当な苦しみを与 える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうものでしょう。あるい は自分が直面している困難や苦難に目が行ってしまうのでしょう。しかし、だか らこそ、本当の敵が誰であるかを見極めていなくてはならないのです。本当の敵 は人間ではないのです。本当に戦って克服し解決しなくてはならないのは、苦難 そのものではないのです。そうではなくて、本当の敵は「悪魔」だと言うのです。 人間相手の戦いの泥沼に呑み込まれてしまわないためにも、苦しみそのものに呑 み込まれてしまわないためにも、真に身を慎んでいるためにも、「あなたがたの 敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回って います」というこの言葉を、人は自分自身のこととして聞かなくてはならないの です。

 人間相手の戦いならば、こちらが相手よりも強くなることが重要になるのでしょ う。しかし、悪魔が敵であると認識するならば、戦い方もおのずと違ってまいり ます。ペトロは何と言っていますか。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に 抵抗しなさい」(9節)とペトロは励ましているのです。そうです、悪魔相手の 戦いならば、何よりも重要なことは、信仰にしっかりと踏みとどまることなので す。

信仰にしっかり踏みとどまって

 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」ということとの関連 で、既に大事なことが前の方で語られていますので、そこも見ておきましょう。 今日の朗読箇所は6節からでした。もう一度お読みいたします。「だから、神の 力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけ ます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心 にかけていてくださるからです」(6‐7節)。

 その直前には「皆互いに謙遜を身に着けなさい」ということが書かれています。 今日の箇所はその続きです。しかし、単に謙遜を美徳として勧めているだけなら ば、「神の力強い見ての下で自分を低くしなさい」とか「思い煩いは、何もかも 神にお任せしなさい」という言葉は必要ありません。明らかにこれは、読者が苦 しみの中にあるから書かれているのです。その中で悪魔との戦いの中にあるから こそ書かれているのです。

 苦しみの中にある時、誰かから苦しめられている時、まず考えなくてはならな いのは、「わたしは神の御前で謙っているか」ということなのです。いつの間に か神に対して恐ろしく不遜な態度を取っていることがあるからです。神を畏れる ことを忘れていることがあるからです。実際、苦難の中に置かれているというだ けで、神に対して不遜であることが許されるかのように思っていることさえある ものです。お互いに謙遜を身に着ける以前に、そもそも神に対して謙遜を身に着 けているか。そのことを問わなくてはならない。どうしてもそのところにおいて、 立ち帰るべきところに立ち帰らなくてはならないのです。なぜなら、神の力強い 御手の下でへりくだることがなかったら、その次に書かれているように、思い煩 いを神にお任せするということもできないはずだからです。

 神の力強い御手を侮ってはなりません。私たち自身が、神の力強い御手の下で 自分を低くしなくてはなりません。神に対して謙遜を身に着けなくてはなりませ ん。そうしてこそ、力強い御手を持った御方が、また私たちを心にかけていてく ださる神であることを知るようになるのです。

 「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と聖書は語り ます。「いつかきっと心にかけてくださるでしょう」と言っているのではありま せん。「時々は心にかけてくださいます」と言っているのでもありません。「い つも心にかけてくださっている」と言っているのです。私たちが高ぶって、神を 忘れていたときに、神の方は、常に心にかけていてくださったのです。私たちが そのお方に背を向けて、自分の力に頼って生きていたそのときさえ、神は私たち を心にかけていてくださったのです。神はいつだって心にかけていてくださる天 の父です。しかし、私たちが傲慢な態度を取っている限り、その真実は見えてこ ない。力強い御手の下に低くなった時にこそ、今に至るまで心にかけていてくだ さった御方に、思い煩いをゆだねることができるのです。

 「信仰にしっかり踏みとどまる」とは、そのようなことなのでしょう。何か自 分が強い者になることじゃない。揺るぎない信念を持つようなことでもない。へ りくだることなのです。神の力強い御手の下に身を低くする。そして、心にかけ ていてくださる御方に私たちの目を向け続けることなのです。それこそが悪魔に 対する抵抗ともなるのです。

信仰を同じくする兄弟たちに目を向ける

 そして、ペトロは「信仰にしっかり踏みとどまりなさい」と言うだけでなく、 信仰に踏みとどまろうとする彼らを、ちょうどつっかえ棒で支えるかのように、 彼らが忘れてはならない大事な言葉を付け加えます。「あなたがたと信仰を同じ くする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがた も知っているとおりです」(9節)。

 悪魔は苦しみを用いて、神の愛を疑わせようとするわけでしょう。「神が心に かけていてくださるなんて嘘っぱちだ。あの人は心にかけていただいているよ。 この人も心にかけていただいているよ。でも、神はあなたのことなんて心にかけ てなんかいない。事実、あなたは苦しんでいるじゃないか。神から見捨てられて いるのさ」。そんな悪魔の声が聞こえてくる。しかし、その時に苦難の中にいる のは自分だけではないことを知らなくてはならないのです。サタンに立ち向かっ ているのは、自分たちだけではないことを、この手紙の読者たちは知らなくては ならない。そして、私たちもまた知らなくてはならないのです。

 日本の教会のことだけを考えていたら見えてこないかもしれませんが、今の時 代であっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、 私たちの想像も及ばないような苦難を耐え忍びながら、なおも信仰に踏みとどまっ て御言葉を宣べ伝えているキリスト者たちが現にいるのです。さらに歴史を辿る ならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を 流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。 苦難の中で神の愛を疑って背を向けるのではなくて、苦難の中でこそ神の変わら ない愛を味わい知り、神は確かに心にかけていてくださるということを目の当た りにしながら、喜びに溢れて生きてきた人たちがいるのです。実際、これを書い ているペトロもそのような一人だったのです。そのような人々のことを忘れては ならないのです。

神が完全に修復してくださる

 そして、さらにペトロはもう一本のつっかえ棒を加えます。こう書かれていま す。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通し てあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しん だあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくだ さいます」(10節)。

 ここには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではあ りません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」で す。それは一時的なものではありません。「しばらくの間」のことのゆえに、 「永遠」の救いを投げ捨ててしまってはならないのです。一杯の食べ物のゆえに、 長子の権利を譲り渡したエサウのようであってはならないのです。

 苦しみは永遠ではありません。その先に、永遠の栄光に招いてくださった神御 自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺ら ぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっています。「完全な 者とする」とは、「破れたものを修復する」というような意味の言葉です。もし かしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかも しれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれませ ん。いずれにせよ、人間であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加え たとしても、あるいは何を奪っていったとしても、苦しみの後には最終的に神が 責任をもって完全に修復してくださるのです。すべてを回復してくださるのです。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。今は戦いがあ ります。信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。悪魔との戦いです。揺 らぐことも起こるでしょう。倒れそうになることもあるでしょう。しかし、その ような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、も はや揺らぐことはないようにしてくださるのです。もう揺るがない。もう倒れる 心配もない。戦いが終わる時が来る。そのような時が来る。それはすべて神によ るのです。私たちが頑張って強くならねばならないのではありません。繰り返し ますが、大切なことは、神の力強い御手の下で身を低くすることです。ですから ここでもペトロは「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」と言って 締めくくっているのです。そうです、私たちにとっても大事なことは、御前にへ りくだって、力ある神、そして、心にかけていてくださる神に信頼して、ペトロ と共にこう唱和することなのです。「力が世々限りなく神にありますように、アー メン」。

 
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