「捨て去るべきもの、慕い求めるべきもの」 2010年5月2日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ペトロの手紙一 2章1節~10節 生まれたばかりの乳飲み子のように  今日の箇所には、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の 乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(2 節)。ここで「乳飲み子のように」という話が出て来るのは、その前に「新たに 生まれた」という話が書かれているからです。「あなたがたは、朽ちる種からで はなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって 新たに生まれたのです」(1:23)と書かれていますでしょう。  人は新たに生まれることができるのです。いわば二度誕生することができる。 一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。私たちが「お誕生日おめでとう」 と言ってお祝いする、あの誕生のことです。この世の人すべてに共通している誕 生です。この誕生は必ず経験しています。だからこの世に存在しているのです。 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、 聖書によるならば、人はもう一度誕生することもできるのです。二度目の誕生。 それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートするのです。  一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕 生においては、「神の子供としての私」が生まれます。一度目の誕生において、 この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中 にいる私」が生まれます。イエス様が「主の祈り」を教えてくださいましたでしょ う。今日も礼拝で共に祈りました。あの「主の祈り」は、まさに新しい誕生に関 わっているのです。つまり、私たちは神の子供として「天にまします我らの《父 よ》」と祈りながら生き始めたのです。神の家族として「天にまします《我らの》 父よ」と祈りながら生き始めたのです。そのようにして、私たちは二度目の誕生 によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。それが信仰生活です。  そのように、信仰に入るということは、赤ん坊が家族の中に生まれてくるよう に、新しい関係の中に、すなわち神の家族の中に、新しく生まれることです。そ れゆえに、神の家族として互いに愛し合う兄弟や姉妹として生きることが求めら れることになります。ですから1章22節にはこう書かれているのです。「あな たがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになった のですから、清い心で深く愛し合いなさい。」こう書かれているのは、新しく生 まれたからなのです。「兄弟愛」が語られ得る家族の中に生まれたからなのです。  さて、そこには「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と確かに そう書かれていました。しかし、生まれたばかりの時にはまだ赤ん坊ですから、 その「兄弟愛」もはじめは当然のことながら赤ん坊のレベルから始まるのでしょ う。ですから、場合によっては「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですか ら」と言われても、「現実にはそうなっていないじゃないか」と思うこともある かもしれません。自分を見ても、「そうなっていないじゃないか」と思わずには いられない。そんなこともあるかもいれません。しかし、赤ん坊ならば成長して いったらよいというだけの話です。だからこそ「偽りのない兄弟愛を抱くように なったのですから」と言いながら、それがゴールなのではなくて、さらに「清い 心で深く愛し合いなさい」と勧められているのです。  大事なことは私たちが成長することなのです。教会としても成長することなの です。家族として成長することなのです。お互いの関係において成長することな のです。この世の兄弟でもそうですが、兄弟らしくなって初めて兄弟となるわけ ではありません。兄弟であるという事実が先にあります。私たちもまた、愛し合 う神の家族らしくなったから神の家族となるのではありません。新しく生まれた という事実が先にあるのです。家族とされているという事実が先にあるのです。 仮に憎み合っていたとしても家族なのです。しかし、そのような状態が神の意図 であり御心であるはずがありません。神が最終的に実現しようとしておられるの は愛の完成した世界です。それこそが救いの世界であり神の国です。私たちはそ の完全な救いの世界に向かっているのです。その救いの完成に向けて私たちは神 の子供とされているのです。だから成長していくことが大事なのです。  そこで私たちが生い育っていくためにどうしても必要なことが二つあります。 ペトロがはっきりと書いています。一つは「捨て去ること」。こう書かれていま したでしょう。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」。 まずは否定的な側面からですが、大事なことは兄弟愛を妨げるものを捨て去って いくことです。「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやら なくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。そ れはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えている のか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。 あるいはついつい言ってしまった。そういうことはあるかもしれません。しかし、 いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。兄弟愛を 妨げるものは、神の御心でないことを認めて、悔い改めて手放す。気づかせてい ただいたら、その都度、悔い改めて手放すのです。  そしてもう一つ。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということ。成長するた めには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる 言葉です。御言葉を慕い求めることです。これなくして絶対に成長はあり得ませ ん。否、生まれたばかりの赤ん坊が乳を飲まなかったら死んでしまうように、御 言葉を求めるか否かは死活問題です。  御言葉を求めるためには、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがた は、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」 (3-4節)。主のもとに行くとは、具体的にどういうことでしょうか。実はこの 勧めの言葉は詩編34編9節から来ているのです。その詩編の言葉は、古くから 聖餐の式文に用いられてきたものです。つまり、ここでペトロは恐らくキリスト 者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られて いたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を悔い改めをもって捨て去り、そ して霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりもまずこうして聖餐卓を囲んで共 に集まる主の日の礼拝においてなのです。ここはそのような場所なのです。 霊的ないけにえを献げなさい  そのように主の日に聖餐卓の周りに集まる教会。悪いものを捨て去りながら、 霊の乳を慕い求めて主のもとに集まる教会。その教会について、さらにペトロは もう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」 です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見 捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなた がた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。 そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを 通して献げなさい」(4-5節)。  聖書において「神の家」と言えば、それは神殿のことです。ですから、ここで 語られている「霊的な家」は神殿のことです。もちろん「《霊的》な家」ですか ら、建造物のことではありません。ペトロの時代にも、週毎に各地に集まり礼拝 を捧げていた信仰者の共同体。そして、二千年も後に、ここに集まっている私た ち。それを神は「霊的な神殿」として見ていてくださっているということです。  その神殿を建てるためのコーナーストーン、「かなめ石」はキリストです。キ リストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活 させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているの です。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わせれて神殿が造 り上げられる。そのようなイメージなのですが、その切石こそ私たちなのです。 「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるよう にしなさい」とはそういうことです。  その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。かつ てエルサレムの神殿に祭司たちがいたように、霊的な神殿にも祭司たちがいるの です。それは私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれていると おりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。霊的な神殿 において献げられるのは、エルサレムの神殿において献げられていたような動物 犠牲ではありません。「神に喜ばれる霊的ないけにえを献げなさい」(5節)と 語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私た ち自身の体のことです。パウロも次のように語っているとおりです。「こういう わけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に 喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなす べき礼拝です」(ローマ12:1)要するに、ここで私たちは生きている「切石」 として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる 霊的ないけにえとして献げるのです。  これらすべては神の恵みとして私たちに与えられていることです。考えてみて ください。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」と書かれているのです。私たちが自 分自身を献げるとき、そのいけにえを神は喜んで受け入れてくださるということ です。本来、あり得ないことではありませんか。むしろ、「お前などいらない。 神に背いてきた者よ、滅びてしまえ」と言われても仕方のない私たちでしょう。 しかし、そうではなく神に喜んで受け入れていただけるとするならば、それは一 重にキリストのゆえなのです。キリストによって与えられた罪の赦しによるので す。ですから、ただ「霊的ないけにえを献げなさい」と言われているのではなく、 「イエス・キリストを通して献げなさい」と言われているのです。すべてはキリ ストを通して与えられた恵みだからです。  これが教会において起こっていることです。私たちは主のもとに集まります。 私たちは捨て去るべきものを手放し、御言葉の乳を慕い求めます。そのように、 私たちが主のもとに集まる時に、霊的な神殿が目に見える形でここに姿を現しま す。私たちは自らを神に喜ばれるいけにえとして献げます。日曜日の集まりは讃 美歌付き講演会ではありません。私たちは生けるキリストのもとに集まり、自ら を献げて神を礼拝するために集まっているのです。そのように、週毎に捨て去る べきものを手放し、慕い求めるべきものを慕い求めていくならば、私たちは信仰 者として成長し、教会はまことに神の神殿としての輝きを現していくに違いあり ません。  そして、それはただ私たちのためだけではありません。私たちはまだ福音を受 け入れていない世界のただ中に置かれているのです。そこにおいて、ペトロは教 会がどのような存在とされているかを語ります。「しかし、あなたがたは、選ば れた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(9節)。 これらは皆、旧約においてイスラエルを表現する言葉です。イスラエルが選ばれ た民であったのは、彼らが諸国民に対して誇るためではありませんでした。そう ではなくて、「国々の光」(イザヤ49:6)とするためでした。同じように、 私たちがここに存在しているのも、この世界のためなのです。「それは、あなた がたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、 あなたがたが広く伝えるためなのです」(9節)と書かれているとおりです。神 は私たちをこの世に遣わされ、自分自身を献げた私たちをこの世のために用いら れるのです。