「凡てのこと相働きて益となる」
2010年5月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章28節~30節
万事が益となるように共に働く
本日朗読された箇所の内、ローマの信徒への手紙8章28節は、聖書の中でも 良く知られている言葉の一つです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従っ て召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたした ちは知っています。」そう書かれていました。
「万事が益となるように共に働く」とありましたが、実は、わたしにとっては 文語訳の方が馴染み深いのです。「凡(すべ)てのこと相働きて益となる」。も ちろん、私自身は文語訳聖書を読んで育った世代ではありません。口語訳の世代 です。しかし、読んではいなくても、「凡てのこと相働きて益となる」という言 葉を《聞いて》育ったのです。それは私の祖母を含め、教会のお年寄りが恐らく 一番よく口にする聖書の言葉だったからです。「凡てのこと相働きて益となる」。 それは長い年月、神を信じて、キリストに従って生きてきた人たちの実感だった のでしょう。戦争の時代を経てきた方々の人生には私などが想像もつかないよう な辛いことがたくさんあったに違いない。多くの涙を流してきたに違いない。そ の時には、「どうしてこんなことが」と思えるようなこと、神様の愛が信じられ なくなるような出来事もあったに違いない。しかし、そのすべてを経て、今、年 老いた自分がなお神を賛美している。礼拝している。感謝の祈りを捧げている。 希望をもって天を見上げている。そんな喜びを抱きながら過ぎし日々を振り返る 時、教会のお爺ちゃんたちお婆ちゃんたちは、やはりこう語らずにはいられなかっ たのでしょう。「凡てのこと相働きて益となる」と。
「凡てのこと相働きて益となる」。新共同訳では「万事が益となるように共に 働く」。そう、「《共に》働く」のです。単に「働く」ではなくて、わざわざ 「共に働く」という言葉が使われているのです。一つ一つをバラバラに見たら、 それは「益」となっているようには到底見えない。そういうことがいくらでもあ る。しかし、それらが一緒に働くときに、それは「益」となる。何か料理の話み たいです。料理は材料となるものが一緒になって「共に働いて」はじめて「おい しい」ものとなるのでしょう。私たちはそのことを知っているわけです。だから、 「どうせ腹の中でミックスされるなら同じだ」といってバラバラに食べたりはし ません。しかし、私たちの人生に起こってくる一つ一つの出来事については、ど うもバラバラに見て、個別に味わおうとしてしまうもの。そして、苦い、しょっ ぱい、不味い、どうしてこんなものが必要なのかと文句を言ってしまいます。で も、それらはもしかしたら、料理で言えば、塩やごま油や薬味であるかもしれま せん。大事なことは、それらが合わさってとても美味しい料理ができるところま でをイメージできるかどうかということなのです。
その「美味しい料理」までを思い描くためには、やはり料理人のことをも考え ていなくてはなりません。皆さんがレストランに行って、ものすごく腕の良いシェ フだと聞いたら、そして信じているなら、そのシェフが出す料理はきっと美味し いに違いないと考えるし、胸を躍らせて期待するわけでしょう。「万事が益とな るように共に働く」とありましたが、その「万事」だけを考えていてはならない のです。その背後におられる神様のことを考えなくてはならない。究極のシェフ、 万事を用いて私たちにとって最高に善いものを仕上げることのできる御方に、私 たちの心を向けなくてはならない。「万事が益となるように共に働く」とは、単 なる積極的思考ではありません。信仰の言葉です。ですから、昔の人はそれを明 確にしなくてはならないと感じたのでしょう。写本によっては「神」という言葉 がちゃんと入っている。ですので、例えば「万事が益となるように神が共に働か せてくださる(God causes all things to work together for good)」という訳も あるのです。
御計画に従って召された者たちには
そのように、いずれの訳にせよ、万事を益となるように共に働かせてくださる のは神様なのです。主体は神様なのです。ならば大事なことは、その神様と私た ちがどういう関係にあるかということです。そこでパウロは、ただ「万事が益と なるように共に働く」というだけでなく、その前に(原文では前と後に)「神を 愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには」という言葉を置い ているのです。
神様と無関係であるならば、「万事が益となるように共に働く」ことを私たち が期待する根拠など、本当はどこにもありません。しかし、「あなたがたはその 御方と無関係ではないでしょう」と聖書は言うのです。私たちは「召された者た ち」という言葉で呼ばれているのです。今、私たちがここにいること、神を愛し、 敬い、礼拝する者としてここにいることの不思議を思わなくてはなりません。そ れは私たちが計画したことですか。いいえ、そうではありません。ここに至るま でに自分が決めたことなど、ほんのごく一部のことに過ぎません。ほとんどすべ てのことは私たちの意志とは関係なく動いていたのです。つまり、私たちは自分 の思いを超えた力によって導かれ、今、ここにいるのです。私たちは召されて、 呼ばれて、ここにいるのです。「御計画に従って召された者たち」と言われれば、 なるほどそうだと思いませんか。ここにいること自体、既に神の恵みの御計画の 中に、恵みに満ちた神との深い関わりの中にいるのです。
だからこそ、私たちの側としては、召された者として生きていくということが 大事なのでしょう。召された者として、召してくださった方と共に生きていく。 召してくださった神を愛して、信じて、生きていくということ。細かい話になり ますが、「万事が益となるように共に働く」とあるこの部分について、実はもう 一つの解釈があるのです。「神が、神を愛する者たちと共に働く」という解釈も できる。「共に働く」がどちらともとれるのです。聖書協会訳聖書ではこう訳さ れていました。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された 者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っ ている」(ローマ8:28聖書協会訳)。神が信仰者と「共に働く」ということ です。
あえて一つの解釈に限定する必要もないでしょう。神は万事を共に働かせて益 とすることのできる御方。究極のシェフです。しかし、神は私たち自身と無関係 にそのことを実現しようとはなさらない。神は私たちと一緒にそのことを実現さ せようとしておられるのです。神は、神を愛する者たちと共に働こうとしておら れる。神が共に働こうとしておられるならば、私たちがそこで神を愛する者とし て、神を信じる者として、神と共にあるということが重要になるのでしょう。せっ かく材料は揃っているのに、私たちがシェフに信頼しないで、共に働こうとしな いで、「なんだこんな不味いもの」と言いながら材料を投げ散らかしていたらど うでしょう。折角の料理が台無しでしょう。本当は、美味しい料理だけでなく、 その料理を作るプロセスさえも一緒に楽しめるはずだったのに、その幸いな時も 台無しになってしまいます。
神が共に働こうとしていてくださるのなら、神に協力することです。ぶつぶつ 言って邪魔しないこと。パウロは自分たちのことを「神の協力者」(2コリント 6:1)と呼んでいます。あえて口にすれば、それは何とも畏れ多い言葉ですが、 私たちにとっても必要な意識です。必ずしもパウロのように伝道者として働く事 ばかりではありません。ある場合には、神に協力することとは、つぶやかず疑わ ずひたすら忍耐することなのかもしれません。いずれにせよ、召された者として ここにいること自体、既に神の御計画の中にあることを思い、神が為そうとして おられる善きことがあることを信じて身を献げて生きることなのです。
御子に似たものにしようと
そして最後に「万事が益となるように共に働く」とある、その「益」とはそも そも何であるかを見ておきましょう。実際、私たちは利益を追い求めながら生き ているものです。あらゆる判断において、その基準は自分にとって利益となるか 否かです。純粋に他の人の利益のために、他者のために生きようとしている時に も、そのことによって自分の内に満足とか喜びとかがあるという「利益」がある からそうするのです。あるいは感謝や賞賛を受けるという「利益」が得られるか らそうするのです。必ずしも利益を追求することは悪いことではありません。し かし、もう一方で何が自分にとって本当の利益なのかを知らないということも事 実です。利益を追い求めながら、実のことろ自分にとって害でしかないものを追 い求めていることはいくらでもあります。本当に何が私たちにとっての利益であ るのか、しかも暫定的な利益ではなく永続的な利益となるのか。そのことを知っ ているのは神様でしょう。そして、神様はその永続的な利益を与えようとしてお られる。「万事が益となるように共に働く」とは、そういうことです。その意味 では、キリスト教は究極の「御利益信仰」であるとも言えます。
では最終的に神様が与えようとしておられる利益とは何なのか。聖書はこう言っ ています。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしよ うとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられ るためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを 義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(29-30節)。
神様は私たちを御子と似たものにしようとしておられるのです。あのイエス様 に似たものにしようとしておられる。父なる神との生き生きとした交わりを見せ てくださった御子なるイエス様。父なる神への信頼して生きることを見せてくだ さったイエス様。そして、父なる神の愛を携えて人々と関わられたイエス様。神 を愛し、人を愛して生きることを見せてくださったイエス様。そして、死によっ ても失われない御子の栄光を復活によって見せてくださったイエス様。あのイエ ス様と似たものとしようとしていてくださると言うのです。そのように、天の父 を愛し、互いに愛し合って生きられるようになること。そのような愛の交わりが 完成すること。それが完全に実現すること。そのことにまさる永続的な利益はな いというのは事実でしょう。
すべてはそこに向かっているのです。そのような、いわば究極の料理の完成へ と向かっているのです。その作業を神は私たちと一緒にやろうとしていてくださ る。私たちはそのプロセスを神と共に楽しむことができるのです。そして、その 途上においてしばしば神の驚くべき匠の業を目にする度に、私たちは「凡てのこ と相働きて益となる」と感嘆の声を上げるのです。そして、やがてすべてが完成 したその時には、最終的に神の御国において、私たちは心からこう叫ばずにはい られないに違いありません。「凡てのこと相働きて益となる。そうだ。本当にそ のとおりだった」と。