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「心の目を開いてください」

2010年5月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 1章15節~23節

心の目を開いてください

 「心の目を開いてくださるように」。今日お読みした聖書箇所にそう書かれて いました。パウロの祈りです。「心の目を開いてくださるように」。肉の目では 見えないから。どんなに頑張って目を凝らしても肉の目では見えないからです。 だから心で見るしかない。それは何か。「希望」です。聖書の表現によれば、 「神の招きによってどのような希望が与えられているか」(18節)ということ。 これは開かれた心の目で見なくてはならないのです。

 「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。聖書は「神の招き」 について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいる。教 会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けている こと、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私 たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。私たちの意志とは無 関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあって、初めて実現したことで す。それらはすべて向こうからやってきたものです。向こうからやってきた全て を通して、神が招いてくださった。そうして、私たちは集められたのです。です からそのような集まりは初めの頃から「エクレーシア」と呼ばれていました。日 本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼 び集められたもの」という意味です。それが教会です。

 神が集められたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集める なら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にく べるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪 深さを思うならば、それもまた一つの可能性です。本来ならば、そちらの方が可 能性が高い。しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞きました。イエス・ キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架の ゆえに「あなたの罪は赦された」という言葉を聞いたのです。私たちは集められ て福音を聞いたのです。私たちは、イエス・キリストの神、イエス・キリストを この世に送ってくださった神が、私たちを集めてくださったのだということを知 らされています。言い換えるならば、神が私たちが集めてくださったのは、私た ちを救うためであることを、私たちはキリストを通して知らされているのです。

 私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださった。私た ちは愛と憐れみの神に招かれて今ここにいる。それが私たちの希望の根拠です。 愛の神に招かれた。だから既に希望は与えられているのです。そうです、招かれ たことにおいて、原理的には既に希望は与えられているのです。しかし、それが 見えるかどうかはまた別の話です。持っていることと、それを見て喜んでいるこ ととは別の話です。持っていても見えていないがために、目を向けていないがた めに、全く喜んでいないことはいくらでもあり得る。だから「見える」ことが必 要なのです。

 パウロにははっきりと見えている。しかし、エフェソの教会の人たちにはどう も見えないらしい。だからパウロはエフェソの教会のために神様に祈っているの です。「心の目を開いてくださるように」と。それは私たちのための祈りでもあ るでしょう。皆さんは、パウロの手紙の世界と自分自身の生活とのギャップを感 じること、ありませんか。私はよく感じます。パウロには見えていることが私た ちにはまだ見えていない。そう思わざるを得ないのです。だからもっと見えるよ うになりたい。それゆえに祈るのです。「心の目を開いてくださるように」とい う祈りは、確かに私たちのための祈りでもあります。

受け継ぐべき栄光の富が見えるように

 さて、そのように「心の目を開いてくださるように」と祈って、見えるように なりたい希望の内容について、もう少し細かく読んでいきましょう。希望の内容 は大きく二つあります。希望の内容の第一は未来に関すること、第二は現在に関 することです。第一は最終的な事柄に関すること、第二はそこへ向かう途上に関 することです。第一は神の国に関すること、第二はこの世の生活に関することで す。

 未来に関する希望。神の国の希望。それは次のように表現されています。「聖 なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)。 「受け継ぐもの」というのですから、それは未来に関することです。神の国に関 することです。最終的に受け取るものが、どれほど豊かなものであるかが分かる ように、という祈りです。

 私たちは、ものすごく豊かな未来に向かっている。豊かな栄光に輝く未来に向 かっている。実際、そんなイメージで生きていますか。この世の感覚から言った ら、むしろ逆じゃないですか。例えば、人生の終わりという「未来」に向かうこ とを考える時、どうですか。一般的にそれは「失っていく」「衰えていく」とい うイメージしかありませんでしょう。衰えて、失って、何も無くなってしまう。 それが一般的な死のイメージです。この世の終わりも同じです。最終的には崩壊 し、破滅に至る。そのような終わりのイメージしか持ち得ないものです。ですか ら、人生の終わりにせよ、この世の終わりにせよ、それはまさに「豊かさ」から 遠ざかることとしか考えられないものです。

 しかし、私たちに対してパウロは「そうではないのだ」と言うのです。最終的 に、とてつもなく豊かなものが待っている。私たちはそこに向かっているのです。 それは「栄光に輝いている」のです。「栄光」というのは、もちろん神の栄光の ことです。その豊かさは神から来る豊かさだということです。そこに私たちは向 かっているのだ、と。

 神から来る豊かさという話になれば、確かに、信仰者であるならばある程度は 経験しているはずです。信仰生活の中で、不思議に心が満たされるという経験。 まさに天から来たとしか言いようのない魂の満たし。神から来る慰め。神が与え てくださる喜び。救いの味わいを、私たちは既に味わっています。しかし、私た ちがこれまでに経験してきたことは、まだごくごく一部であり、ケーキの端っこ のクリームを舐めた程度のことに過ぎないのです。終わりの時に受ける豊かさは、 こんなものではない。そこにはとてつもない豊かさが待っている。大きな救いの 喜びが待っているのです。その豊かさがどれほどのものか悟ることができるよう に、とパウロは祈っているのです。そのためには心の目が開かれなくてはなりま せん。肉の目で見える事柄ばかり見て、そのことばかりを考えて、目に見える目 の前のことに振り回されて生きているのではなくて、心の目が開かれて、とてつ もない豊かさに向かっているのだということが見えるようになる必要がある。私 たちもまた未来の希望について、「心の目を開いてくださるように」と祈らなく てはなりません。

絶大な働きをなさる神の力が見えるように

 そして、第二は現在に関すること、途上に関すること、この世の生活に関する ことです。パウロは祈りをこのように続けます。「また、わたしたち信仰者に対 して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくだ さるように」(19節)。「この絶大な働をなさる神の力」ということで語られ ているのは、私たちの現実に関する話です。

 先に申しましたように、私たちは信仰生活において神から来る豊かさの一部を 味わいます。しかし、もう一方において、この世に生きる限り、私たちには戦い があります。信仰生活の喜びがあるだけでなく、苦闘もまたあるのです。皆さん にとって、その戦いの戦場はどこにあるのでしょう。家庭でしょうか。職場でしょ うか。社会の中でしょうか。確かに「男は敷居を跨げば七人の敵あり」とも言わ れます。しかし、私たちは、家庭の中や社会の中に戦場があると思っていてはな らないのです。そうではなくて、戦場は私たち自身の内にあるのです。まず、私 たち自身の心と考えにおいて、敵である悪魔に勝たなくてはならないのです。サ タンに負けてはならないのです。ですから、パウロは「《わたしたち信仰者に対 して》絶大な働きをなさる神の力」と言っているのです。「わたしたち信仰者に 対して」と書かれていますが、厳密には「わたしたち信仰者の内に」という意味 の言葉なのです。

 神の力が働くのは、第一には「私たちの内に」です。私たちのまわりにではあ りません。私たちは周りの状況が変わることを第一に求めるものです。周りの人 たちが変わることを求めます。しかし、神が変えようと思っているのは、まずは 私たち自身なのです。「信仰者の内に」神の力が働くのです。

 そして、わざわざ「《信仰者》の内に」と書かれていることを見落としてはな りません。「信仰者」とは「信じている人」という意味です。過去に「信じた人」 ではありません。今「信じている人」です。まわりの困難な状況の中で信じるこ とをやめてしまう人ではありません。神はまわりの状況を変えてくださらない、 と言ってブツブツ言う人ではありません。信じ続ける人です。本当の戦いは自分 の内にあることを悟って、自分が変えられなくてはならないことを悟って、神に 信頼し続ける人です。そこにこそ神の力が働くのです。

 その力について、パウロは次のように表現しています。「神は、この力をキリ ストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座 に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、 来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(20-21節)。 ーーこの力が、私たちの内に働くのです。キリストにおいて、復活という大逆転勝 利をもたらした、この復活の力が、私たちの内にも働くのです。

 神の国には期待するけれど、この世の人生には何も期待しない。そんな歪んだ 信仰者にならないようにしましょう。「どうせ何も変わらないさ」と言いながら、 何も新しいことを期待しない、希望をもって自らの人生をも見ることができない。 そんな信仰者にならないようにしましょう。そのためには、私たちの心の目が開 かれていくことが必要です。この世に働いている神の力がどれほど大きなもので あるか、どれほど大きな力を信仰者の内に働かせようとしておられるのか、その ことがもっともっと見えるようになるように、そして、常に神に対する大きな期 待をもって生きていくことができるように、「心の目を開いてくださるように」 と祈り求めていきましょう。

 
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