「小さな種の中にある大きな木」 2010年5月23日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 4章26節~34節     使徒言行録 2章1節~11節 聖霊降臨祭を迎えて  今日は聖霊降臨祭です。この日は、いわば「教会の誕生日」です。教会がどの ように誕生したのか、教会の宣教の歴史がどのようにスタートしたのか、その次 第が本日の礼拝において読まれました。使徒言行録二章に記されている出来事で す。もう一度お読みしてみます。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっ ていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座って いた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上 にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほか の国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。  今日の読者からすれば奇妙なことが書かれていると思われるかもしれません。 しかし、教会はこの摩訶不思議な話を後生大事に伝え続けてきたのです。教会の 歴史はこうしてスタートしたのですよ、と。世界中の多くの教会が毎年この話を 読み続けてきたのです。大事なことを忘れないためにです。それは何か。――人 間が教会を生み出したのではない、ということです。そこには「突然、激しい風 が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」と書か れていましたでしょう。まさに「突然」なのです。それは人間が企画し、周到に 準備して実現したことではないのです。まさに、向こうから到来したとしか言い ようのない出来事だった。その物音も、この世の風の音ではない、まさに天から 吹いて来たとしか言いようのない音だった。また彼らが見た「炎のような舌」も 人間の経験の中にある炎でも舌でもなかったのです。  教会は誰か強力な指導力を持つ人物が現れて弟子たちをとりまとめて作ったの ではありませんでした。弟子たちが自主的に一つのイデオロギーのもとに団結し て教会を作ったというのでもありませんでした。共通の課題や共通の敵に対して 一つにまとまった結果、教会が生まれたのでもありませんでした。教会は毎年、 そのことを思い起こし、確認してきたのです。人間が自分たちの意志で集まった 集まりならば、人間から来るものしか期待できないでしょう。しかし、教会はそ のようなものではない。この頌栄教会もそうです。そのような天からの出来事に よって始まった教会の歴史の中に、この教会も存在しているのです。だからここ に集う私たちは、人からのものではなく、神からのものを求めるのです。この世 のものではなく、天からのものを求めるのです。人間にではなく、神に期待して 共に生きていくのです。人間の支配にではなく、神の支配に目を向けるのです。 神の救いの御業に目を向けて生きていくのです。 「成長する種」のたとえ  そのような私たちに、今日、与えられている福音書の言葉は、イエス様のなさっ た二つのたとえ話です。第一は「成長する種」のたとえです。第二は「からし種」 のたとえです。どちらも私たちに対して大きな希望を語っているたとえ話です。  まず、26節から29節までをもう一度お読みしましょう。「また、イエスは 言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起 きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人 は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてそ の穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たか らである』」(26-29節)。  神は、キリストをこの世界に遣わされ、キリストの福音という「種」をこの世 界に与えてくださいました。そして、そのキリストの福音という種は教会を通し て私たちの人生に蒔かれました。神は私たちの内に、神の国の種を蒔いてくださ いました。神の救いの御業は既に始まっております。私たちに信仰生活が与えら れているとはそういうことです。  とはいえ、もしかしたら人の目から見るならば、大したことが始まっているよ うには見えないかもしれません。自分がキリストを信じたと言っても、それが何 が変わったとも思えない。そんな人がいるかもしれません。だいたい、種という のは砂粒と良く似ているのです。蒔かれた状態と蒔かれていない状態とを区別す ることは、時としてとても難しい。そのように、キリストの福音が蒔かれていて も、蒔かれていなくても、大差ないように見えるかもしれない。しかし、種は砂 粒とは違うのです。その内に命がある。命があるなら成長するのです。神の国の 種は成長していくのです。神の救いの御業は進んでいくのです。  蒔かれた種の成長は「夜昼、寝起きしているうちに」なされていくとイエス様 は言われました。しかも、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」と言わ れました。そうです。種の成長というものはそういうものです。人間が知らない 内に、人間の理解を超えたしかたで、成長が進んでいるのです。  農夫がいちいち種をほじくりかえして、毎日芽が出たか、どれくらい伸びたか を確認していたら変でしょう。農夫は自分のできることだけをして、あとは寝起 きしながら、とにかく自分の理解を超えたしかたで芽が伸びていることを信じて、 その現れを待つのでしょう。しかし、私たちはどうも神のなさることがどう進ん でいくのか把握していないと気が済まないようなところがある。そして、自分の 思い通りに進んでいないと焦ったりつぶやいたりすることになるのです。それは まるで種をほじくり返している農夫みたいです。  私たちはもっと神の御業に信頼すべきなのでしょう。神は救いの御業を進めて いてくださる。神の国の種はちゃんと成長していくのです。そして、人間が何を したとか何をしないとか、そんなこととは関係なく実を結ばせるのです。「土は ひどりでに実を結ばせる」とイエス様が表現しているとおりです。  さらには「穂には豊かな実ができる」とイエス様は言われました。最終的に豊 かな実りとなるとイエス様は言ってくださっているのです。そこで刈り入れにつ いて語られていることは重要です。刈り入れと言えば最終的な神の審判です。刈 り入れをなさるのは神様です。ならば本当に重要なことは、私たちの目から見て 豊かな実りというよりは、神様の目から見て豊かな実を結ぶということなのでしょ う。私たちに蒔かれた神の国の種は、私たちの思いを超えた仕方で、そのような 豊かな実りへと向かっている。そうイエス様が言われるのですから、神様がなさっ ていることにもっと信頼して、希望をもって生きようではありませんか。 「からし種」のたとえ  次に30節から32節までをお読みします。「更に、イエスは言われた。『神 の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のよ うなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、 成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな 枝を張る』」(30-32節)。  このたとえにおいてイエス様が注目させようとしているのは、種の小ささと成 長した木の大きさとの対比です。そのためにイエス様は当時最も小さい種として 知られていた「からし種」を引き合いに出されました。その種が育つと3~4メー トルにもなると言われます。ある意味では、蒔かれた時点で、その小さな種の中 に未来の大きな木が存在しているとも言えるでしょう。その未来の大きな木が小 さな種の中で現れ出る時を待っている。神の国は、そのような種にたとえられる とイエス様は言われたのです。それが神のなさること。それが神の救いの御業だ と。  神に御業はからし種のように、人間の目に止まらないくらい小さなこととして 始まるかもしれません。そもそもイエス様という存在がそうだったのです。聖書 を読みますとナザレのイエスという御方が当時の世界に一大センセーションを巻 き起こしたかのように思ってしまいますが、実際はパレスチナの狭い世界の中で の話です。イエス様が十字架にかけられたということも、古代の歴史家がほとん ど気にも留めていない、記録もしていない、そんな出来事に過ぎなかったのです。 神のなさることはまことに小さく始まります。しかし、その小さな種の中には未 来の大きな木が眠っている。  皆さんの内に蒔かれた神の国の種。キリストを信じて受け入れたという事実。 それは今は本当に小さな小さなからし種のように見えるかもしれません。しかし、 そこからどれほどの大きな木が育っていくのか、どれほど広く枝を伸ばすことに なるのか、それは誰も知らない。その小さな種は計り知れない可能性を秘めてい るのです。そのような未来の大きな木が既にその小さな種の中にある。それを実 現するのは神の御業です。  私たちは毎日の生活において人の行為ばかりに目を向けています。人が実現す ることが全てであるかのように生活しているものです。そのような目で自分を見 て、自分の信仰をも見て、時として自分という存在がいてもいなくても同じよう なつまらない存在であるかのように思ったり、あるいは自分がキリスト者とされ ていることが大して意味のないことのように思ったりしてしまうかもしれません。 だからこそ、私たちはこうして週毎に集まるのです。私たちは天からの御業によっ て始まった教会の中に意識して身を置き、神に期待し、神の御業に目を向けなが ら生きていく必要があるのです。イエス様がなさったのは神の国のたとえです。 その主役は言うまでもなく神様です。神を主役とするこの話の中に、私たちは繰 り返し自らを据え直して生きる必要があるのです。