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「神の子供として生きる」

2010年5月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 8章12節~17節

神の養子とされて

 イエス様はある夜、御自分を訪ねてきたファリサイ派の教師であるニコデモに こう言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の 国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。使徒ペトロも教会に宛てた手紙の 中でこう言っています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種か ら、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」 (1ペトロ1:23)。そのように、人は「新たに生まれる」ことができる。人 は二度生まれることができる。そのようなことを、四週間前の礼拝においてお話 ししました。

 新たに生まれること。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。私たちは皆、 一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれました。私たちは皆、一 度目の誕生において、この世の家族の中に生まれました。この誕生だけを経験し て一生を終える人もいます。しかし、人はもう一度誕生することができる。信仰 による二度目の誕生において、「神の子供としての私」が生まれます。信仰によ る二度目の誕生において、「神の家族の中にいる私」が生まれます。神の子供と して、神の家族として、イエス様が教えられたように「天にまします我らの父よ」 と祈りながら生きていきます。神を「天の父」と呼びながら生きていきます。そ れが信仰生活であるとお話ししました。

 さて、そのように信仰によって与えられる新しい生活、神を「父」と呼んで生 きる信仰生活について、今日お読みしたパウロの手紙では次のように表現されて いました。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の 子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と 呼ぶのです」(15節)。「アッバ」というのは、小さい子が「パパ」って言う のと同じです。お父さんへの呼びかけです。そのように天の父を呼ぶことができ るのは、「神の子とする霊を受けた」からだと言うのです。「神の子とする」と 訳されていますが、これは本来「養子にする」と訳されるべき言葉です。明らか にパウロが念頭においているのは、実子ではなくて養子の話です。

 なぜ、「養子にする」という言葉をあえて用いたのでしょうか。ーー私たちが神 を「アッバ、父よ」と呼べるということは、決して当たり前のことではないから です。それは特別な恵みによる。そこに強調点があるのです。本来ならば、神の 子供ではあり得ない私たちであるのに、本来ならば「父よ」と呼ぶことなどでき ない私たちであるのに、特別な恵みによって、特別に子供として受け入れていた だいた。もともと子供でなかった者が「養子」にしていただいて、家族の中に受 け入れられた。そういうことです。そのようなことが、どのようにして、実現し たのでしょうか。既にこの手紙に記されています。神がこの世にキリストを遣わ されることによってです。キリストの十字架によって罪の贖いを実現することに よってです。キリストの十字架を通して、信じる者を義とすることによってです。 私たちは、ただキリストの十字架のゆえに、罪を赦され、義とされて、神に受け 入れられたのです。すべては神の一方的な恵みによって実現したのです。そのす べてが、「神の子とする霊を受けた(養子にする霊を受けた)」という言葉に言 い表されているのです。

肉に従って生きる義務はない

 そのようにして、私たちの信仰生活の中には、「神の子とする霊を受けた」私 が生きています。神の恵みによって、神に受け入れられて、「アッバ、父よ」と 呼ぶ、神の子としての私が確かに生きています。そのような神の子としての私が いなければ信仰生活にはなりません。しかし、それが全てですか。養子とされる 前の私、神の子とされる前の私、古い私は死んでしまって墓の中ですか。もう完 全に死体となってピクリとも動きませんか。そうだったら、どんなにいいでしょ う。実際は、そうではありません。悲しいかな、古い方もしっかり生きています。 それが現実の私たちの経験ではありませんか。その古い方、生まれながらの私を パウロは「肉」と呼ぶのです。今日お読みした箇所の最初にパウロが「肉」につ いて語っていましたでしょう。ここで言われているのは、肉体のことでも、肉欲 のことでもありません。「神の子としての私」ならぬ「生まれながらの私」のこ とです。

 「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に 従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(12節)。 肉に従って生きる必要なんてありませんよ。肉に従って生きる義務なんてありま せんよ。そうパウロは言うのです。なぜですか。もう一方においてその可能性が あるからでしょう。信仰生活と言いながら、古い方の私に従って生きていくよう になることが、あり得るからでしょう。

 そのようなことは、誤った失望から生じるかもしれません。キリストを信じ、 罪を赦された者として神に受け入れていただき、神の子として天の父に信頼して 生き始める。しかし、信仰生活を続けている内に、依然として罪を犯す自分がい ることに気づきます。全然変わっていない自分がそこにいることに気づきます。 葛藤が起こります。がっかりします。そのうち、神に祈っている自分は偽物のよ うな気がしてきます。そっちはウソの自分であって、罪を犯している自分の方が 「本物の自分」であるように思えてきます。「信仰、信仰なんて言っているけど、 結局、これが私なんだ」と思ってしまう。そのうち、祈ることもなくなる。神を 礼拝することもなくなる。教会からも遠ざかり、聖書からも遠ざかり、完全に古 い方の自分に従って生きるようになる。そのようなことは起こり得ることです。

 しかし、最初にわたしは「誤った失望」と申しました。それは確かに誤った失 望によるのです。どうして誤りなのか。神の子としての自分が確かに存在するこ とを無視しているからです。確かに、依然として「変わらない自分」もいます。 しかし、弱々しい、赤ん坊のような状態かもしれないけれど、確かに新しく生ま れた私も生きているのです。どちらが永遠なのですか。当然、神の子の方です。 この世に属する生まれながらの人、肉としての私はいずれは滅びるのです。私た ちは神の子として生まれた私、神を父と呼んでいる私の方に目を向けなくてはな らないのです。パウロは言うのです。「わたしたちには一つの義務がありますが、 それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありませ ん」と。そうです、肉に従って生きる必要なんてないのです。

奴隷ではなく子供として

 しかし、「肉に従って生きる」ということは、別な形で起こることもあります。 それが宗教的な形を取ることがあるのです。異邦人キリスト者ならば、「肉に従っ て生きる」ということは、様々な放縦な生活として現れるかもしれませんし、異 教的な習慣として現れるかもしれません。しかし、ユダヤ人キリスト者の場合は、 そうならないかもしれません。もともとが律法を守る敬虔な人たちなのですから、 「肉に従って生きる」にしても、外面的には神を畏れ、敬虔な生活をしているか もしれないのです。先に触れた、「祈ることもなくなり、神を礼拝することもな くなり、教会からも遠ざかり、聖書からも遠ざかり」というのは、ある意味では 非常に分かり易いのです。しかし、そうではなく、肉に従って生きていながら、 極めて真面目なキリスト者であり、敬虔な生活をしており、いかにも神に従順に 生きている、ということはあり得るのです。本当に深刻なのはこちらの方でしょ う。ですから、パウロはそのことを念頭に置いて、「あなたがたは、人を奴隷と して再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語ってい るのです。

 パウロはここで「奴隷」を引き合いに出しています。「奴隷」は「子供」と明 らかに異なるからです。「奴隷」は主人に仕える者です。この手紙が書かれた頃、 ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成 メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですからパウロが「人を奴隷とし て再び恐れに陥れる霊」と言った時、彼らは事柄を直感的に理解できたと思いま す。パウロは「奴隷」と「恐れ」を結び付けるのです。「ああ、そういうものだ」 とすぐに分かったに違いない。奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に 従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。だか ら主人に従います。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一 生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。

 そのように、人間と神様との関係が奴隷と主人との関係みたいになってしまう ことが確かにあるのです。神様の言うことを聞かないと打ち叩かれる。神の命令 を守らないと、罰を与えられる。神様から呪われる。災いに遭う。救われること もない。神の国にも入れてもらえない。だから従うのです。いつ神様に怒られる か、神様に認めてもらえるか、ビクビクしながら神様に従う。そのように、神様 との関係が、そのように奴隷と主人のような関係になっていると、見た目にはも しかしたらとても真面目で敬虔で立派な信仰者に見えるかもしれません。なぜな ら、一生懸命に神様に従っているから。従順だから。

 しかし、それもまた「肉に従って生きる」ことに他ならないのです。それは神 の子とされる以前の古い人のあり方です。そのように、肉に従って、神の奴隷の ように打ち叩かれることを恐れて生きる必要はないのです。「わたしたちには一 つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に 対する義務ではありません」とパウロは言うのです。

 ではどうしたらよいのでしょうか。「わたしたちには一つの義務があります」 と書かれていますが、その一つの義務とはなんでしょうか。明らかにここには一 つの省略があります。ここで「肉」と対比されているのは「霊」です。ならば、 完全な形で記すなら、12節はこうなるはずです。「それで、兄弟たち、わたし たちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないと いう、肉に対する義務ではありません。それは、霊に従って生きなければならな いという、霊に対する義務です。」

 私たちは霊に従って生きるのです。神の子を導く神の霊に従って生きるのです。 神の子とする霊、養子とする霊に従って生きるのです。すなわち、あくまでも養 子とされた者として、神の子供として生きるのです。「アッバ、父よ」と神を呼 びながら生きるのです。まだ罪深い自分が生きていますか。かつての古い人が生 きていますか。かつての自分がまだ生きていることに失望を覚え、悲しみを覚え ていますか。しかし、そのように失望を覚え、悲しみを覚えている私こそ、まさ に神の子供としての私なのです。

 だから、あくまでも神の子供として生きていったら良いのです。肉に従って生 きる必要はありません。神の子供でなかった自分に戻って生きる必要はありませ ん。また、恐れを抱きながら奴隷のように生きる必要もありません。特別な恵み により、十字架における罪の贖いにより、完全に受け入れていただき養子として いただいた者として、「アッバ、父よ」と呼びながら、神に信頼し、神に自分を ゆだねて生きていったらいいのです。なぜなら、肉のゆえに苦しむ現在の姿が私 たちの最終的な姿ではないからです。今日お読みしたところには、子供であるな らば、相続人でもあると書かれていました。私たちは神の国における、キリスト と共同の相続人だと書かれているのです。最終的に救い完成し、神の子としての 私が完全に現れるその時が来るのです。最終的に神の子供としてキリストと共に 栄光にあずかるその時が来るのです。

 
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