「解放してくださるキリスト」 2010年6月13日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 5章1節~20節 わたしとは関係ない出来事?  今日の福音書朗読は、汚れた霊に取りつかれた人がキリストによって解放され たという話です。しかし、それだけではありません。もう一方で、豚の大群が湖 で溺れ死んだという話がくっついています。これらの成り行きを見ていた人たち がいたようです。彼らはその地方の人々に、汚れた霊に取りつかれた人が解放さ れたこと、また大量の豚が死んだことを伝えました。これを耳にした人々はどう したでしょうか。「そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたい と言い出した」(17節)。そう書かれています。  伝えられた二つの話の内、どちらに注目したか、明らかでしょう。豚が死んだ ことです。そんなこと、度々起こされたらたまらない。そう思って、お引き取り 願ったわけです。汚れた霊に取りつかれた人が解放されたというもう一つの大き な出来事にはあまり関心がなかった。どうしてですか。自分には関係ないことだ と思えたからでしょう。もしその人に起こったことが《自分にも必要だ》と思っ たら、出て行ってくれとは言わなかったはずです。例えば、ごく普通の病気の癒 しだったら、違っていたかもしれない。なぜなら、自分も病気になるかもしれな いから。あるいは、身内に病気の人がいるかもしれないから。だから「イエス様、 もうしばらく留まってくださいませんか」となったかもしれません。しかし、誰 も自分が墓に住むようになるとは考えていない。昼も夜も墓場や山で叫んでいる ようになるとは夢にも思っていない。だから、墓に住んでいる人に起こったこと は、自分や自分の身内とは関係ないのです。むしろ豚失ったことの方が大ごとで した。だから「イエス様、出て行ってください。さようなら」となったのです。  しかし、これを見た弟子たち、この出来事を後に伝え聞いた人たち、また、こ の物語を伝えてきた教会は、この人に起こったことを自分とは無関係な出来事と は思わなかったのです。自分とは関係のない特殊なケースだとは思わなかったの です。だからこの話が語り伝えられ、今もなお語り伝えられているのです。つま り世々の人々は、この墓場に住む人に自分の姿を見たのです。「これはわたしだ!」 と思った。だから、このイエス様は自分にも絶対に必要だと思ったのです。「イ エス様、出て行ってください」じゃなくて、「イエス様、留まってください」と 願った。多少の犠牲が伴おうが、多少損をするようなことがあろうが、豚を失う ようなことが起ころうが、(迫害の時代ならば、それこそ家や持ち物を失うよう なことも起ころうが)、とにかく「イエス様、留まってください」と願い、イエ ス様と共に生きたいと願ったのです。 汚れた霊に取りつかれた人  そこで一緒に、もう一度この男の姿に目を向けてみましょう。そこに私たちの 姿がどのような形で見えてくるでしょうか。  第一に、この人は墓場の住人でした。日本の場合、墓場に住むのは難しい。墓 石を動かすだけでも大変です。一般的に中は広くありません。しかし、当時の墓 は横穴式の洞穴が主ですから、人が住もうと思えば住めないこともない。とはい え墓場は本来人間が生活する場所ではありません。そこは人間同士の生きた交わ りのない、まさに死の世界です。  私は墓場に住んだことはありません。皆さんも恐らくそうでしょう。しかし、 私たちもまた、墓場の中にいるような生活をしていることはあり得ます。人間が 生きているということは、ただ単に生物としての生命があるということではあり ません。人間としての生命は、他者との交わりにこそあるのです。神との交わり。 そして人との交わり。人間は愛するとき、本当の意味で生きているのです。です から聖書にはこんな言葉もあります。「愛することのない者は、死にとどまった ままです」(1ヨハネ3:14)。心臓が動いていようが、血液が流れていよう が、「愛することのない者は、死にとどまったままです」と聖書は言います。ど んなに大勢の人々に囲まれ、賑やかな中にいたとしても、確かに人間社会の中に 存在しているように見えても、その人が憎しみの中にとどまっているならば、死 にとどまっているのであり、その人はいわば墓場にいるのです。  第二に、この人は「汚れた霊に取りつかれた人」と表現されています。後でそ の汚れた霊の名前が出てきます。「レギオン」です。「レギオン」とは、もとも とローマ軍の一軍団を意味する言葉です。一軍団には6000人の兵士がいたと 言われます。まさに一軍団に匹敵するような、多くの汚れた霊が、彼を支配し、 彼を引き回していたのです。そうして、いつの間にか人間と共に生きることがで きなくなりました。後に見ますように、彼には家があります。家族もいるのです。 しかし、彼は家族とも共に生きられなくなって、墓場の住人になってしまいまし た。  聖書に出て来る「汚れた霊」という表現に馴染めない人もいることでしょう。 しかし、それを「汚れた霊」と呼ぼうが何と呼ぼうが、人間のコントロールを超 えた力によって自分が振り回されてしまうことがある。人間の内に働く諸々の衝 動によって、現実に人と人との交わりも破壊されてしまうことがある。そのよう にして、命に満ちた愛の交わりが失われ、本来人と人とが共に生きているはずの 場所が墓場のようになってしまうことがある。それは事実ではありませんか。時 にはレギオンーー6000人の兵士たちの軍団ーーが自分の内側で暴れ回るよう な経験というのは、決して私たちと無縁ではないでしょう。  第三に、この人は「これまでにも度々足枷や鎖で縛られた」と書かれています。 地元の人々この人を鎖でつなぎとめておこうと試みたのでしょう。その人の行動 の自由を制限することによって解決しようとした。誰でも考えそうなことです。 足枷と鎖に解決を求めるのです。もちろん、今の時代に、実際に足枷を使うこと はそうそうないかもしれません。実際に鎖につなぐことはしないかもしれない。 しかし、鎖や足枷の代わりに、数多くの規則と罰則を用いることはあるでしょう。 自由であるから問題が起こるのであって、制限と罰則を強化すれば問題は少なく なるのだという考え方は、いつの時代にもあるものです。今日でもそのような主 張はいろいろなところから聞こえてまいります。  しかし、行動の自由を抑制すれば、解決になるのでしょうか。ならないでしょ う。それ以上の力が内に働けば、鎖は簡単に引きちぎられてしまう。いや、実際 には鎖が引きちぎられていなくても、押し込められた内側の問題は何も解決され ていないことはいくらでもあるのです。鎖で縛られれば縛られるほど、内面から 突き上げる衝動は強くなります。汚れた霊は繋がれれば繋がれるほど活発に動き 出すものです。表面的には真面目におとなしく鎖につながれているように見えて も、その魂は苦しみ叫んでいる。そして、いつしか鎖を引きちぎってしまうよう なことも起こります。幾たび繋がれても鎖を引きちぎってしまう。そのようなこ とも起こります。  第四に、この人は「墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしていた」 と書かれています。鎖をひきちぎってしまう自分が赦せない。自分の思い通りに ならない自分自身が赦せない。思い通りにならない自分のことが嫌で嫌でしょう がない。だから、彼は自分で自分を罰するのです。打ち叩き、傷つける。本当は 自分を傷つけたって、自分を罰したって何の解決にもならないのでしょう。そこ には何の救いもないのでしょう。しかし、そうせずにはいられない。そのように しているこの男の気持ち、分かる気がしませんか。程度の差こそあれ、私たちも 同じようなことをしていることがあるでしょう。 イエス様が来てくださった  しかし、今日の福音書朗読は何を伝えているでしょうか。この男は見捨てられ ていなかったということです。神から見捨てられていなかった。イエス様が、嵐 に荒れ狂う湖を越えてこの男のところまで来てくださった。イエス様が「向こう 岸に渡ろう」(35節)と言って、ゲラサ人の地まで来てくださった。そんな話 です。  そうです。これは私たちの話ではありませんか。イエス様は来てくださった。 私たちがいる墓場まで、イエス様は来てくださった。私たちが自分で自分を打ち 叩いているところに、イエス様は来てくださった。苦しくて叫んでいるところに、 イエス様は来てくださった。私たちのいるゲラサ人の地まで、神なき人生の中に まで、イエス様は来てくださった。だから、私たちは今、こうして教会にいるの です。  イエス様が来てくださったのは何のため。人々がしたように、鎖や足枷につな ぐためにですか。多くの規則や罰則によって私たちをつなぐためですか。いいえ、 そうではありません。私たち自身が自分を打ち叩くように、一緒になって、私た ちを打ち叩くためですか。いいえ、そうではありません。私たちを愛するために 来てくださいました。私たちを憐れみ救うために来てくださいました。主はこの 人に言っておられます。「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことを ことごとく知らせなさい」(19節)と。  ならば、私たちはどうするのですか。この男は走り寄ってひれ伏したのです。 足枷や鎖ではどうにもならないことを知っているからです。自分で自分を打ち叩 いても、何の解決にもならないことを知っているからです。だからイエス様にす がりつくようにして、ひれ伏したのです。そうです、私たちもまたイエス様の前 にひれ伏したらよいのです。どうにもならない自分自身をイエス様の前に投げ出 したらよいのです。  しかし時として、私たちの内に分かれ争うもうひとつの声が上がります。この 人に起こったようにです。彼は言いました。「いと高き神の子イエス、かまわな いでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と。汚れた霊の声です。放ってお いてくれ、という声です。変わりたいという思いと、そのままでいたいという思 い。その二つが分かれ争うのです。助けて欲しい。救って欲しい。でも、放って おいて欲しい。かまわないでくれ。苦しめないでくれ、と。  そこで、この人はどうしましたか。放っておいて欲しいという声に従って、イ エス様のもとを去りましたか。いいえ、この人はイエス様のもとに留まったので す。イエス様もまた、この人のもとに留まった。しかも、敵ではなく味方として です。イエス様の言葉からわかります。「汚れた霊、この人から出て行け」と主 は言われました。あくまでもこの人の側に立って、この人の味方として、汚れた 霊に命じてくださったのです。この人の味方として、汚れた霊と自ら戦ってくだ さった。そのように本当の意味で味方になってくれる人なんていなかったのです。 自分自身でさえ、自分の味方になれなかったのですから。  そして、イエス様が最終的にこの人をレギオンから解放してくださいました。 その出来事は次のように描写されています。「汚れた霊どもはイエスに、『豚の 中に送り込み、乗り移らせてくれ』と願った。イエスがお許しになったので、汚 れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下っ て湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」(12-13節)。湖になだれ 込む夥しい豚の群れ。溺れ死ぬ豚たちの悲痛な叫び。それを見て、この人はきっ と思ったことでしょう。イエス様がおられなかったら、「本当はわたしがこの豚 のように滅びていたに違いない」と。  最初に申しましたように、このゲラサの人の中に世々の人々は自分の姿を見て きたのです。そして、このイエス様の姿に、復活し今も生きておられるイエス・ キリストを見てきたのです。教会は、行動を抑制するための足枷や鎖を提供する 場所ではありません。人間の与える戒律、人間の提供する鎖によって、罪の問題 は解決しないのです。教会は、こちら側に渡ってきてくださったイエス様に、私 たちが駆け寄る場所です。イエス様の前に自分の身を投げ出す場所なのです。イ エス様が渡ってきてくださった。だから私たちには希望があります。私たちは、 もう一人で格闘する必要はない。どうにもならない自分と格闘し、破れ、嘆き、 自分を打ちたたき、自分を傷つけ、自分を痛めつけながら生きる必要はないので す。イエス様が来てくださいました。神の国は近づきました。イエス様のもとに こそ救いがあります。