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「人生は新しくやり直せる」

2010年6月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ミカ書 7章18節~20節、コリントの信徒への手紙二 5章16節~21節

自分と向き合うこと

 私たちが神を信じて生きようとする時に、どうしても避けて通れないことがあ ります。それは自分自身と正直に向き合い、自分が生きてきた人生と正直に向き 合うことです。なぜなら、私たちが神様を信じるとするならば、その神の御前に 「このわたし」は確かに存在するのであり、その神の御前に、「このわたしの人 生」もまた営まれてきたということになるからです。簡単に言うならば、神がお られるなら、その神に私たちは見られているのであり、知られているのであり、 私たちの人生もまた見られてきたのであり、知られてきたということになる、と いうこと。ですから、この私がどういう者であり、どのように生きてきたのかが 問題となるのです。

 そのように自分自身を正直に見つめ、自分の人生と向き合うならば、これもま た避けられないこととして、どうしても自分の罪深さ、自分の犯してきた過ち、 自分の行った諸々の悪について考えざるを得なくなります。神の御前にあったも のとして、自分の生きてきた道筋を辿り直してみる時に、人の目には隠れていた としても神の目には確かに見えていたに違いない罪があったことを考えざるを得 ない。自分が正義の側に立っていた時でさえ、自分たちの正しさを主張し他の人々 を非難し断罪していた時でさえ、そこに他ならぬ自分自身の罪があったことも見 えてきます。その時には自分でさえ気づかなかった、自分自身の傲慢さ、貪欲、 エゴイズム、偽りが、実は多くの身近な人々を傷つけ苦しめてきたのだという事 実も見えてきます。いや、実際に私たちが自分自身を振り返って見いだし得る罪 などは、恐らくはほんのごく一部に過ぎないのでしょう。私たち自身が一生気づ かないままでいる罪の方がどれだけ大きいか知れないのです。

 そのように、私たちが神について考えるだけでなく、神を信じて生きていこう とするならば、神と共に生きていこうとするならば、どうしても自分の罪の問題、 自分の人生における罪の問題と向き合わざるを得なくなるのです。それはある意 味ではたいへん恐ろしいことであるとも言えます。本当の意味で罪を正しく裁く ことのできる御方の前で自分自身を見つめること、他ならぬ自分自身を問題にす ること、それは恐ろしいことです。それならばいっそのこと、神を信じるなんて いわないほうが良いと思う人がいるのもうなずけます。自分自身の問題に目を向 けるよりは、周りの人々を問題にし、家族を問題にし、社会のありようを問題に し、政治家を問題にして批判する側に立っている方がよほど楽であるとも言える。 この人生全体が神の御前にあるなんてこと考えないで、「どうせ死んだら無にな るのだ。だからどう生きようが同じなのだ」と考えて生きていたほうがよほど楽 であるとも言えるでしょう。

 にもかかわらず、私たちはそうしないで、今、確かに私たちは礼拝堂にいるの です。教会は毎週集まって神への信仰を言い表し、神様を礼拝するのです。あえ て、意識的に神様に向かうのです。言い換えるならば、罪ある自分自身をそのま まあえて神様の光の中に連れてくる。いまだに問題だらけであるかもしれない自 分自身をどこかに置いてくるのではなくて、そのままここに連れてきて、神様の 御前に出るのです。なぜでしょう。私たちには伝えられ、知らされていることが あるからです。すなわち、罪を正しく裁くことのできる唯一の御方はまた、私た ちの罪を赦してくださる御方であるということです。最終的に裁く権威を持って いる御方が、その権威をもって赦しを宣言してくださる。神様はそのような御方 であることを伝えられているのです。

罪を海の深みに投げ込んでくださる神様

 今日読まれました聖書箇所において、旧約の預言者が次のように語っています。 「あなたのような神がほかにあろうか、咎を除き、罪を赦される神が。神は御自 分の嗣業の民の残りの者に、いつまでも怒りを保たれることはない、神は慈しみ を喜ばれるゆえに。主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の 深みに投げ込まれる」(ミカ7:18-19)。

 紀元前六世紀、バビロニアによってエルサレムが陥落せられ、城壁が破壊され、 神殿が焼き払われてしまった時、そして国を失った民がバビロンに捕らえ移され た時、ある人々は自分たちの神が負けたのだと考えた。しかしもう一方で、自分 たちがどのような者であるのか、自分たちがどのように生きてきたのか、さらに は自分の属する民族がどのような歴史をたどってきたのかを真実に見つめた人た ちがいたのです。彼らは、自分たちが神に背いてきたこと、その民族の歴史はま さに背信の歴史であったことを認めざるを得ませんでした。彼らは自らの罪の大 きさを思って打ちひしがれたことでしょう。しかしその時、彼らが聞いたのは、 神からの断罪の言葉ではなくて、罪の赦しの言葉だったのです。

「我らの咎を抑え」というのは「我らの咎を征服し」という意味です。「我らの 咎を踏みつけ」という訳もあります。神様はイスラエルの人たちを踏みつけられ たのではなかった。そうではなく、彼らの咎を踏みつけられ、彼らのすべての罪 を海の深みに投げ込まれたのです。海の深みに投げ込まれるとは、永遠に戻って 来ないということです。それほどに完全に赦された。そのようにして、彼らはそ こから新しく生き始めることが許されたのです。

 神様はそのような神様だと私たちは伝えられているのです。私たちの過去に何 があろうとも、私たちがどんなに罪深い存在であろうとも、神は私たちのすべて の罪を海の深みに投げ込んで葬り去って、もう二度と浮かび上がれないようにし てくださる。そのようにして、私たちを赦された存在として新しく生かしてくだ さる御方なのです。神様がそのような御方であるからこそ、私たちもまた正直に 自分と向き合うことができるのです。そして、悔い改め、神に立ち返ることがで きる。再び神と向き合うことができるのです。神のもとには豊かな慈しみがあり 赦しがあるから。

 そもそも自分から顔を背けても、自分の罪に目を閉ざしても、過去をどこかに 押し込んで蓋をしてしまっても、何の解決にもならないのです。何も変わらない。 そこに救いはないのです。本当は分かっているのです。借金に例えるならば明ら かでしょう。もし返済しきれない借金があるならば、その現実から目を背けても、 忘れようとしても、事実忘れてしまったとしても、何も変わらない。何の解決に もならない。それと同じです。罪があるならば、必要なのは赦しなのです。罪を 裁く権威のある御方に赦していただいて、新しく生かしていただくこと。そのよ うにして実際に新しく生き始めることなのです。

神の伸ばされた和解の手

 さらに私たちは今日、コリントの教会に宛てたパウロの手紙を読みました。新 しく生かしてくださるというだけではありません。パウロは、「キリストと結ば れる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい ものが生じた」(2コリント5:17)と言っているのです。天地創造に匹敵す る、新しい創造が起こるのだと言うのです。

 古いものは過ぎ去った。何によって。神の与えてくださる赦しによってです。 神が罪を海洋投棄してくださるからです。それゆえに神との間の古い関係は終わっ たのです。神に背を向けていた、壊れた関係は終わったのです。既に神様との新 しい関係が始まっているのです。その神との新しい関係は「和解」という言葉に よって表現されています。もはや神様と私たちを隔てるものはありません。隔て は取り除かれました。それは神様の一方的な恵みによる罪の赦しによってです。 そのことが18節と19節にはっきりと書かれています。

 「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたした ちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授け になりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪 の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(同1 8-19節)。

 私たちを最終的に裁くことのできる御方が、私たちの罪の責任を問わないと言 われるのです。「罪の責任を問う」という言葉を直訳すると「罪過を数え立てる」 という言葉です。私たちは普段、そういうことしてますでしょう。罪過を数え立 てる。他の人の罪を一つ一つ問題にし、一つ一つについて償いを求める。あるい は償いを求めないにしても、「あの人はこういうことをした。ああいうことをし た」と、心の中の記録ノートにしっかりと記帳しているものです。しかし、神様 はそのようなことをされない。神様は罪の記録を破棄してくださる。もはや数え 立てないと言われるのです。

 神様は私たちの罪を数え立てるのではなくて、自ら和解の手を伸ばしてくださ いました。悪いのは私たちであるのに、神様の方から手を伸ばしてくださったの です。この世に伸ばされた和解の御手、救いの御手は目に見える形で現れました。 イエス・キリストというお方として。天の父によって遣わされ、私たちの罪を贖 うために十字架におかかりくださったイエス・キリストこそ、神の赦しの言葉で あり、伸ばされた神の和解の手なのです。「キリストを通して私たちを御自分と 和解させた」と書かれているとおりです。

 そのように神様が手を伸ばしてくださいました。ならば、私たちに必要なこと は明らかでしょう。私たちもまた手を伸ばして神の和解の手をつかむことです。 神の御前にある私として、神様の目から見るならば確かに罪人であるに違いない、 そのような私として、和解の手をつかむのです。神様によって罪を赦していただ き、神様と和解させていただくことです。パウロが切々と訴えているではありま せんか。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」 と。そして、和解の手をつかんだならば、その手をしっかり握って生きていくこ となのです。キリストに結ばれて、キリストの内にあって生きていくのです。

 そのように、和解の手につながっているならば、キリストに結ばれているなら ば、確かに私たちは新しく創造された者であると言えます。何が新しくなったか。 性格が変わったか。良い人になったか。そんな変化は大したことではありません。 神様との関係が変わったのです。関係が新しくなる。それこそが決定的に重要な ことなのです。神は私たちの罪を海の深みに投げ込まれます。そのようにして、 古いものは過ぎ去り、新しいものが生まれるのです。そのようにして人は、神の 御前において、神と共に、新しい人として生きていくのです。

 
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