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「心を鈍くさせるもの」

2010年7月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 8章14節~21節

 今日の福音書朗読の中でイエス様はこう言っておられました。「ファリサイ派 の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15節)。これが今 日、私たちに与えられている御言葉です。

ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種

 ファリサイ派。この福音書によく出てきます。この直前にも出ています。「ファ リサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論を しかけた」。天からのしるしを求めたというのは、要するに「お前がメシアなら しるしを見せろ」ということです。信じたいからしるしを求めているのではあり ません。明らかに、信じたくないから、しるしを求めているのです。「イエスを 試そうとして」「議論をしかけた」という言葉に彼らの悪意が見られます。どう して、議論を吹っ掛けにきたかというと、その前にちょっと悔しいことがあった からです。7章にファリサイ派の人々と律法学者たちが出て来る。彼らはイエス 様から痛いところを突かれてへこまされたのです。メンツ丸つぶれ。だからリベ ンジに来たのです。

 その7章を見ますと、こんなことが書かれています。「ファリサイ派の人々と 数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、 イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを 見た」(7:1-2)。「見た」って書いてありますけど、要するに「気になった」 ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たち は昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」

 なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリ サイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生 活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、 昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほ か、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っているこ とがたくさんある」(同3-4節)。こういう人は、他の人のことが気になる。し かも守るにしても喜んで守っているのならよいのだけれど、義務感から、仕方な く何かを守っている人、自分はこれだけ一生懸命に何かを行っているんだぞ、と 日頃から思っている人は、守っていない人が気になる。自分と同じように行って いない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。

 ではなぜ、そこまで一生懸命に昔の人の言い伝えを守ってきたのか。宗教的な 仕来たりを守ってきたのか。一つには他の人の目が気になるということがあった のでしょう。他の人を批判的に見る人は、自分も批判されているんじゃないかと 気になる。だから批判されないように一生懸命になるものです。しかし、もっと 深いところにおいては、神様との取り引きがあるのです。一生懸命に戒律を守る。 なぜ。そうしないと神様から良いものをもらえないから。永遠の命ももらえない から。とにかく形式的にでもちゃんと義務を果たして神様から良いものをいただ こう。そのような取り引きを律法主義というのです。

 これがファリサイ派のパン種です。パン種、すなわち酵母はちょっと入れると 全体が膨らみます。そのように、律法主義が入り込みますと、信仰生活全体に影 響を及ぼすことになるのです。ですからイエス様は言われたのです。ファリサイ 派のパン種に気をつけなさい、と。

 もう一つは「ヘロデのパン種」です。この福音書にはファリサイ派の他に、 「ヘロデ派」などというものも出てきます。3章には、「ファリサイ派の人々は 出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと 相談し始めた」(3:6)などと物騒なことが書かれていました。

 実は、これは本当はとても奇妙なことなのです。というのも、ファリサイ派の 人たちとヘロデ派の人たちは、いわば犬猿の仲だったからです。ファリサイ派の 人たちが宗教的な人々の代表と言うならば、ヘロデ派の人々は世俗的な人々の代 表です。彼らは、ヘロデ・アンティパスというガリラヤの領主を支持する政治的 なグループです。ヘロデ・アンティパスというのは、あの洗礼者ヨハネの首を切っ た人物です。ヘロデは一般的に宗教的なユダヤ人からは支持されていませんでし た。そのヘロデを支持するのは権力の恩恵に与っている人たちです。既に得てい る権益を守ろうとしている人たちです。それこそが大事なのであって、神様のこ とは二の次なのです。

 神様のことを考える人は、神様と取り引きしようとする。神様のことを考えな い人は、この世の権力や人間の持っているものが重要であると考える。ファリサ イ派は前者、ヘロデ派は後者であると言えます。イエス様はファリサイ派のパン 種に気をつけなさいと言われただけでなく、ヘロデ派のパン種にも気をつけなさ いと言われました。ヘロデ派のパン種とは、すなわち現世重視の世俗主義です。

神の恵みに信頼すること

 さて、このファリサイ派のパン種とヘロデのパン種。全く正反対のようにも思 えます。繰り返しますが、元来、ファリサイ派の人たちとヘロデ派の人たちは犬 猿の仲なのですから。しかし、実はそこに共通点もあるのです。だから一緒になっ てイエス様に敵対したのです。

 彼らの共通点、それは何か。人間の方向にしか目が向いていないという点です。 ファリサイ派の人たち。人間の行いが気になります。他の人が何を行っているか。 そして、自分が何を行っているか。律法主義というのは、律法を守る人間の行い の方に関心が向くことになるのです。それはそうでしょう。人間が何を行うかで、 神様が良いものを与えるか、悪いものを与えるかが決まると思っているのですか ら。そして、もう一方でヘロデ派の人たち。人間の持っているものが気になりま す。他の人についても、自分についても。どれだけの権力を持っているか。どれ だけの影響力を持っているか。どれだけの財産を持っているか。何を持っている か。神様のことを考えないならば、あとは人間のことしか考えられません。その ようにファリサイ派のパン種にせよ、ヘロデのパン種にせよ、人間の方にしか目 が行っていないという点では同じなのです。

 それに対して、イエス様はどうであったのか。「神の国は近付いた」と宣言さ れたのです。圧倒的な神の恵みの支配が既に来ていること、人はその中に生きら れることを語られたのです。イエス様がこの世に来られたこと自体、そこに圧倒 的な神様の恵みが既にあるのです。神は独り子さえ世に遣わされたのです。そう までして、神の愛を現わされたのです。神がこの世を、私たちを救おうとしてい てくださることを、その計り知れない恵みをイエス様の到来によって現わしてく ださったのです。

 イエス様のなさったことはすべてそのしるしに他なりませんでした。罪人と一 緒にイエス様が食事をされたことも、いかなる人も神の愛の対象であることを現 わすしるしだったのです。病気を癒されたことも、どんな苦しみの中にある人も また、神の愛の対象であり、神は救おうとしていてくださることを現わすしるし だったのです。そのように神の圧倒的な恵みが来ている。イエス様がなさったパ ンのしるしもまた、その神の圧倒的な恵みを現わすしるしだったのです。人はた だその神の恵みに信頼しさえすれば良いのです。信じたらよいのです。信じるな らば、その恵みの中に生きることができるのです。

 ところがファリサイ派のパン種やヘロデのパン種が入って来るとどうなるか。 イエス様を送ってくださったほどの圧倒的な神の恵みが既にあるのに、人間の方 にばっかり目が行ってしまうのです。実際、あの弟子たちもそうだったのです。 彼らはパンを持ってくるのを忘れてしまいました。舟の中には一つのパンしか持 ち合わせていなかったのです。人間はそういう失敗をするものでしょう。あるい はそのような欠乏と困窮に直面するのでしょう。しかし、圧倒的な神の恵みの中 にあるならば、本当はそんなことは大したことじゃないはずではありませんか。 パンを忘れたって大丈夫。パンが一つしかなくたって大丈夫。本当はそうなので す。しかし、ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種に毒されると、神様の恵み の大きさに思いが向かなくなってしまう。自分の失敗、自分の乏しさばかりに目 が行ってしまうのです。

 しかも悪いことに、その失敗や乏しさを責められているような気がするのです。 イエス様が「ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と 言った時に、彼らはどう思ったか。「弟子たちは、これは自分たちがパンを持っ ていないからなのだ、と論じあっていた」というのです。パンを持っていないか ら、イエス様に責められたのだと感じた。イエス様は彼らの失敗を責めてなんか いません。彼らの乏しさを責めてなんかいません。しかし、ファリサイ派のパン 種とヘロデのパン種に毒されると、責められているような気がするのです。人間 の方にしか目が行かないから。自分の失敗や乏しさにしか目が向かないから。

 そこでイエス様は言われるのです。「『わたしが五千人に五つのパンを裂いた とき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』弟子たちは、 『十二です』と言った。『七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの 屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。』『七つです』と言うと、イエスは、 『まだ悟らないのか』と言われた」(19-21節)。イエス様はもう一度、既に 現わされた圧倒的な神の恵みの豊かさに目を向けさせようとしているのです。彼 らはそのような神の恵みの中にいるのですから。イエス様と同じ舟の中にいるの ですから。だから失敗があろうが、乏しかろうが大丈夫なのです。

 そうです、私たちも彼らと同じ、圧倒的な神の恵みの豊かさの中にいるのです。 既にキリストは来られ、しかも十字架にかかられたキリストによって私たちの罪 は既に完全に贖われ、私たちは神の子供たちとされているのですから。ならば失 敗があろうが、乏しかろうが、欠けがあろうが、どう見ても十分ではないように 見えようが、大丈夫なのです。そのことを悟らなくてはならないのです。必要な ことはただ信じることだけなのです。神のなさることに信頼したらよいのです。

 イエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。 まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか」。心を かたくなにし、鈍くしてしまうもの。それはファリサイ派のパン種とヘロデのパ ン種です。それらに気をつけなくてはなりません。

 
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