「本当に価値あるものを失ってはなりません」 2010年8月1日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 マルコによる福音書 9章42節~50節 神にとって大事な一人だから  主はこう言われました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずか せる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかに よい」(42節)。そこまでイエス様が言われるのはなぜですか。それは明らか にイエス様にとって、「これらの小さな者の一人」が大事だからでしょう。そし て、父なる神にとっても、「これらの小さな者の一人」が大事であることが分かっ ているからでしょう。  ところで、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」とはいったい誰のこと でしょう。話の流れからしますと、それは弟子たち一人ひとりです。その直前に はこう書かれています。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、 あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)。 その「あなたがた」のことです。  その「あなたがた」が、たとえこの世においてどれほど小さな者であったとし ても、神様の目にはそう映っていない。だから、誰かがたった一杯の水を飲ませ ただけであっても、あたかも神様は自分がその親切を受けたかのように、神様御 自身が報いられる。「必ずその報いを受ける」と主は言われるのです。なぜなら、 それは神様にとって大事な一人に対する親切であるから。そのように、神は見て おられる。他の人の目にどう映ろうと、自分の目にどう映ろうと、どれほど小さ な者に思えようと、キリストの弟子である、キリストに属する者であるとは、そ ういうことなのです。  しかし、もう一方において、イエス様は知っておられるのです。確かにキリス トの弟子であるということで水を飲ませてくれる人はいるかもしれない。しかし、 往々にしてそうはならない。そこには水を飲ませてくれる者だけでなく、つまず かせる者もいるのです。「つまずかせる」とは神から離反させることです。それ は罪への誘惑という形で起こることもありますし、迫害という形で起こることも あります。いずれにしても、これはそこにいた弟子たちにしても、後の時代の弟 子たちにしても、多かれ少なかれ直面せざるを得ないことだったのです。それは ある意味では今日でも同じです。  いずれにせよ、それは神様にとって小さなことではありません。この世的に見 てどんなに小さな存在であったとしても、あるいは教会の中においてどんなに小 さく見える信仰者であったとしても、神様にとってはそうではないのです。その 人が受ける親切をわがことのように考えられる神様は、その人が受ける誘惑や迫 害も、わがことのように考えられるのです。その人が神から誘惑や迫害によって 神から離れてしまうならば、信仰を失ってしまうならば、それは父なる神にとっ て大ごとなのです。父なる神にとってそうならば、イエス様にとっても同じです。 だから主は激しい言葉をもって、こう言われるのです。「わたしを信じるこれら の小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ 込まれてしまう方がはるかによい」と。 つまずかされてはならない  さて、続く43節以降の言葉は、そのように神から見られている人に対して語 られている言葉なのです。そのような「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」 に対して語られた言葉なのです。そのことを念頭に置いて読まなければ、ここに 書かれていることは恐怖以外の何ものでもありません。ここに書かれている言葉 は脅迫の言葉となってしまいます。  実は後の教会において、そのように脅しの言葉としてこの箇所が用いられた形 跡があるのです。今日の箇所に44節と46節が無いことに気付かれましたでしょ うか。実は44節と46節は、48節と同じ「地獄では蛆が尽きることも、火が 消えることもない」という言葉なのです。しかし、古い写本にはないのです。本 文を書き写した後の人々が付け加えたものと思われる部分なのです。だから新共 同訳では本文には入れてない。恐らくは教育的な配慮からか、脅かして罪から離 れさせるためであるか、いずれにせよ地獄の部分を強調しようとしたのです。要 するに地獄絵図を描くのと同じ発想です。  しかし、これは地獄を描写して、脅して行いを改めさせようという類の言葉で はないのです。既に見てきましたように、これらの言葉の底に流れているのは、 キリストを信じて従い始めた者たちに対する神の熱き想いなのです。すなわち、 絶対にその人を失いたくない、だから絶対につまずいて欲しくない、絶対に離れ て行って欲しくない、絶対に信仰を失って欲しくない、そのような「これらの小 さな者の一人」に対する神の愛と熱情がこれらの言葉の根底にあるのです。  そのような神の思いが、まずは「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつ まずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がは るかによい」という言葉で表現されていました。しかし、つまずかせる者は必ず しも外にいるとはかぎりません。迫害者や悪意をもって誘惑してくる者ばかりが 問題なのではありません。そうではなくて、つまずきの原因が自分の内にあるこ とがある。自分が自分をつまずかせ、自分が自分を神から引き離してしまうこと があるのだ、ということです。  だから「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」 と主は言われるのです。「両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよ りは、片手になっても命にあずかる方がよい」と。なんとも過激な言葉です。も ちろん、イエス様は目の前の弟子たちが文字通り片手を切り落とすことを期待し てはいないでしょう。つまずかせる者が「石臼を首に懸けられて、海に投げ込ま れてしまう方がはるかによい」と言っても、実際に弟子たちが迫害者たちを海に 投げ込んで殺害することを期待してはいないのと同じです。  大事なことは、先の言葉に神の思いが表されていたように、この「もし片方の 手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」という言葉にも、神 の思いが表されているということなのです。すなわち、いかなるものによって、 たとえ自分自身の手足や目によってさえ、つまずかされて欲しくないということ です。いかなるものによっても神から引き離されてしまうようなことがあって欲 しくないということです。なぜなら、それは永遠の救いにかかわっているからで す。 命にあずかる方がよい  43節をご覧ください。ここでイエス様は「地獄(ゲエンナ)」という言葉を 使っておられます。地獄について語っておられる。それは何を意味しますか。私 たちのこの世界は、いかなる意味においても「地獄」ではないということです。 どんなに悲惨なことがあろうとも、悲しみと苦しみに満ちていようとも、ここは 「地獄」ではない。神から見捨てられてしまった世界ではないのです。どんなに 悲しみと悩みに満ちた人生であったとしても、私たちの人生はいかなる意味にお いても「地獄」ではない。神から見捨てられた人生ではないのです。  この世界は、神がキリストを遣わされた世界です。神が罪の贖いの十字架を打 ち立てられた世界です。神が罪の赦しを宣言し、御自分との交わりへと招いてく ださっている世界です。私たちの人生は、神が赦しを与え、神との交わりへと招 いてくださっている人生です。神に見捨てられた人生などではない。だからこそ、 この世界の中において今も教会が存在していて、今も福音が宣べ伝えられていて、 そのような中で私たちもまた神との交わりへと招かれ、こうして信仰の歩みを始 めているのです。既に本当の命への道を歩み始めているのです。  イエス様は言われましたでしょう。「命にあずかる方がよい」と。「片手になっ ても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」そし て、言い換えて言われます。「一つの目になっても神の国に入る方がよい」。そ うです、「命にあずかる方がよい」「神の国に入る方がよい」。イエス様はそう 思っていてくださるのです。それは神の願いです。「命にあずかる」「神の国に 入る」いずれの表現にしても、それは完全な永遠の救いを意味しています。そう です、私たちはこの見捨てられていない世界の中で、見捨てられていない人生で あるゆえに、神から招かれて、救い主に従い始め、完全な救いに向かって歩き始 めたのです。そうです、キリストを信じる小さな者の一人であるとはそういうこ となのです。  そのように命に向かって歩み始めたのだから、最後まで歩き通して欲しい。何 によってもつまずかされて欲しくない。そう神は願っておられるのです。たどた どしい歩みであるかもしれない。まだ赤ん坊のようによちよち歩きかもしれない。 しかし、とにかくつまずいて欲しくない。もし信じる者を誘惑したり迫害したり してつまずかせようとする者がいるならば、大きな石臼を首にかけて海に放り込 んでやりたい。そんな思いで神は信仰の歩みをスタートした者を見ていてくださ るのです。そのような思いで私たちの信仰生活を見ていてくださるのです。  また、実際に手を切り落とすようなことはしませんけれど、そうしたっていい ぐらいだと主は言われるのです。なぜなら、それとは比べ物にならないくらい価 値ある、完全な救いへと向かっているのだから。考えてみますなら、このイエス 様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思 います。現実に片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするとい うこともあったに違いありませんから。そのときに「一つの目になっても神の国 に入る方がよい」という主の言葉はどれほど力強く響いたことでしょう。  いや、迫害の時代の話だけではありません。私たちにおいても、実際には人生 の途上において様々なものを失いながら生きて行くのでしょう。その時に、失っ たものを嘆き悲しみながら生きて行くのか、それとも「少なくとも、それによっ てつまずかされることはなくなった。神から引き離されることはなくなった」と 思いながら、全き救いへと向かって歩いて行くのか、それは大きな違いとなるは ずです。神様から引き離されることがなければ、神が与えてくださる永遠の救い へと向かっているならば、真に価値あるものは何も失ってなどいないのです。イ エス様のこれらの過激な言葉が示しているようにです。そこで私たち自身もこう 言いながら生きることができるのです。「確かに、いろいろなものを失ったかも しれない。しかし、それでもなお命にあずかる方がよい。神の国に入るほうがよ い。」