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「牢獄で讃美歌をうたっていた男たち」

2010年8月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 16章25節~34節

投獄されたパウロとシラス

 「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほか の囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)。獄中で賛美をうたって祈って いる二人の姿は、使徒言行録全体の中においても特に印象的です。ところで、彼 らはなぜ獄中にいるのでしょうか。これはパウロの第二回伝道旅行の途上のこと ですから、信仰のゆえに迫害を受けたかのようの思ってしまいやすいのですが、 実はそうではありません。

 事の発端は16節以下に次のように書かれています。「わたしたちは、祈りの 場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占 いをして主人たちに多くの利益を得させていた。彼女は、パウロやわたしたちの 後ろについて来てこう叫ぶのであった。『この人たちは、いと高き神の僕で、皆 さんに救いの道を宣べ伝えているのです。』彼女がこんなことを幾日も繰り返す ので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。『イエス・キリストの 名によって命じる。この女から出て行け。』すると即座に、霊が彼女から出て行っ た」(16-18節)。

 一人の人が悪霊から解放されました。しかし、事はそれで終わりませんでした。 この女奴隷は占いができなくなったのです。主人たちは金もうけの道が断たれま した。腹を立てた彼らはパウロとシラスを捕らえて広場に引き立てていき、高官 に引き渡して彼らを訴えたのです。これは利害の問題ですから、通常であります ならば、訴えに従って正規の取り調べが始まるはずでした。ところが、ここで異 常な事が起こるのです。「群衆も一緒になって二人を責め立てた」(22節)と 書かれているのです。しかも、これがかなりの大騒ぎとなったため、高官たちは 群衆を満足させて鎮めるために、二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた のです。そして、パウロとシラスはさんざん鞭で打たれたあげく、牢に投げ込ま れたのでした。

 パウロとシラスがそのような酷い目に遭ったのは、彼らがイエス・キリストを 宣べ伝えていたからでしょうか。いいえ、人々にとって、彼らがキリスト者であ るかどうかは、どうでも良いことでした。訴えた人々の言葉から分かります。彼 らは言いました。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させており ます」(20節)。つまりパウロとシラスは、キリスト者であるからではなく、 ユダヤ人であるゆえに酷い目に遭ったのです。

 それは21節の言葉からも分かります。「ローマ帝国の市民であるわたしたち が受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております」。そ のように、彼らにとって我慢ならなかったのは、ただ商売が邪魔されたことでは なく、よりによって《ユダヤ人が》商売を邪魔したことだったのです。そして、 そのような差別感情は感情は簡単に燃え移るのです。あっという間に町全体が燃 え上がります。商売とは全く関係のない群衆までがパウロとシラスを責め立てた のです。公職にある高官までもが、取り調べをすることなく二人を鞭打たせ、弁 明の機会を与えることもなく牢屋に投げ込んだのでした。

 このようにパウロが受けた苦しみは、パウロが命をかけて宣べ伝えているイエ ス・キリストのこととは全く関係のない、ユダヤ人差別によるリンチであり投獄 であったのです。何か尊いことを実現するための苦しみ、何か尊いものを守りぬ くための苦しみ、価値や意味と直接結びついている苦しみならば耐えられるもの です。むしろそれは人間に誇りと喜びさえ与える。もう一方で、本当に耐えがた いのは意味の分からない苦難です。価値あるものと結びつかない苦難。不当とし か思えない苦しみ。それは実に耐えがたい。しかし、私たちが一生の間に経験す る苦悩の圧倒的大部分は、そのような意味や価値とは直接結びつかないものでは ないでしょうか。この章のパウロとシラスもまた、そのような苦しみの中に置か れているのです。

賛美し祈るパウロとシラス

 彼らは眠れない夜を過ごしていたことでしょう。鞭打たれた傷がひどく疼いた に違いありません。彼らがはめられていた「木の足枷」は足を開いたままに固定 する拷問のようなものであったとも言われます。しかし、そのような真夜中ごろ、 彼らは賛美の歌をうたって神に祈っていたのです。

 意味や価値と結びつかない苦しみの中にあって、まさに不当としか思えない苦 しみの中にあって人はどうするか。前に向かっての意味を見い出せなければ後ろ を向くしかないでしょう。何か悪かったのか。誰が悪かったのか。一生懸命に犯 人探しをし、誰かを悪者にし、あるいは自らを悪者にし、誰かを呪い、あるいは 自らを呪いながら、眠れない夜を過ごすものでしょう。では悪者が明らかになり、 原因が明らかになったら苦しみはなくなるのかと言えば、決してそのようなこと はないわけです。そうではなくて今の苦しみにさらに誰かを悪者にして責め立て るという苦しみを加えることになる。しかし、それが唯一の選択肢であるかと言 えば、そうではないのです。そこにはもう一つの選択があり得る。その事実をこ のパウロとシラスの姿は示しているのです。

 「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)と書かれています。ほ かの囚人たちは不思議に思ったのでしょう。二人の驚くべき姿に圧倒されて、パ ウロとシラスに向かって、「うるさい、静かにしろ」と言う者は一人もいません でした。冒頭に申しましたように、この場面は使徒言行録の中でもとりわけ印象 的な箇所です。それは私たちもまた、何か不思議なものを感じるからでしょう。 しかし、当のパウロとシラスにとって、恐らくこれは何ら特別なことでも驚くべ きことでもなかったのです。私たちたちがパウロに「なんで牢獄に入れられてこ んな酷い目に遭っているのに賛美をうたったり祈ったりできるんですか」と聞く ならば、きっとこう答えるに違いありません。「私たちは牢獄の外で神を礼拝し ているように、牢獄の中で同じように神を礼拝しているだけです。牢獄に入れら れたって、賛美を捧げること、祈ること、神を礼拝することを妨げるものは別に 何もないでしょう。主と私たちを隔てるもの、主と私たちを引き離すものは何も ありませんよ」。

 パウロとシラスにとって、自分が受けている苦難に意味があるかどうかなどと いうことは、恐らく大して重要なことではなかったのです。意味は神さまが考え てくだされば良い。彼らにはもっと重大なことがありました。それは牢獄の外に あろうが、牢獄の中にあろうが、神様の御前にあるという事実です。イエス・キ リストの十字架によって罪が赦され、救われた者として、神の子供とされた者と して、神の御前にあるという事実です。だから牢獄の中でも同じように主を礼拝 することもできるし、先が見えなかろうと主に信頼することもできるし、自分の 命さえも主にお委ねすることができる。

 実際、パウロやシラスに限らず、人間の置かれている状況は刻一刻と変わって いきます。そして、今自分の周りで何が起こっているかが決定的に重要なことだ と思ってしまうものです。しかし、同じように主を礼拝できるなら、主を賛美し 祈ることができるなら、本当は大事なことは何も変わってはいないのであるし、 本当に大事なものは何も奪われてはいないのです。

神に出会った看守

 さて、物語はさらに続きます。その夜、突然、大地震が起こりました。この大 地震は、見張りを託された牢獄の看守にとって、災難以外の何ものでもありませ んでした。地震で目を覚ますと、なんと牢の戸は全部開いているではありません か。囚人たちは皆逃げてしまったに違いない。ああ、なんということだ。責任を 問われることは免れないだろう。そう思って看守は剣を抜いて自殺しようとした のです。この突然の地震は、彼にとっては人生の終わりを意味するほどの出来事 だったのです。

 しかし、この看守にとって本当に大きな出来事は、実は地震そのものではあり ませんでした。本当に大きなことはその後に起こったのです。彼は闇の中から大 声で叫ぶ声を聞きました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」 パウロの声でした。しかし、重要なのは囚人が逃げなかったことではありません でした。そうではなくて、この看守が神と向き合うことになったということです。 彼はこの一連の出来事の中で悟ったのです。パウロとシラスが闇の中において誉 め称えていた神、彼らが牢獄においても礼拝していた神、自分とは関係ないと思っ ていた神、その生ける神の御前に自分もまた立っていることを。ですから、彼は 囚人が逃げなかったことを単純に喜びませんでした。「ああ、よかった」で済ま なかった。彼は震え上がったのです。彼が震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ 出して言ったのです。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。

 人が真に生ける神の御前にある自分を意識し始める時、そこでは一つの問いが 決定的に重要なものとなります。この私は神に受け入れられるのか、それとも罪 人として神に裁かれるのか、ということです。言い換えるならば、この私は赦さ れるのか、それとも赦されないのか、救われるのか、それとも救われないのか、 ということです。ですから、そこであの看守は問わざるを得なかったのです。 「救われるにはどうすべきでしょうか」と。

 「どうすべきでしょうか(何を行うべきでしょうか)」と彼は尋ねました。し かし、パウロは「何を行うべきか」を答えませんでした。なぜなら、救いは何ら かの行為と引き替えに得られるものではないからです。大事なことは「何を行う か」ではなくて「誰を信じるか」なのです。罪人を救うために世に来られた御方 を信じることなのです。だからパウロは答えました。「主イエスを信じなさい。 そうすれば、あなたも家族も救われます」。

 パウロとシラスは看守とその家族に主の言葉を語りました。彼らは主を信じて 洗礼を受けました。そして、「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」 (34節)と書かれております。彼らはその後、どうなったのでしょうか。私た ちには知る由もありません。ただ、彼らが生まれたばかりのフィリピの教会にお いて、他のキリスト者と共に礼拝を守っていくことは、彼らの生活に少なからぬ 困難や苦難をもたらしたであろうことは想像できます。

 しかし、彼らの生活の中に苦難があるかないか、その苦難に意味があるかない かは、彼らにとって決定的に重要なことではなかったはずです。なぜなら、彼ら は「神を信じる者となったこと」を喜んだのであって、苦難がなくなったことを 喜んだのではないからです。そのような彼らにとって大事なことは、パウロとシ ラスにとってそうであったように、彼らが神の御前にあるということであり、神 に赦され受け入れられた者として神の御前にあるということであったに違いない からです。

 
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