「憐れんでください!」
2010年8月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 10章46節~52節
イエス様がエルサレムへと向かう旅の途中のことです。イエス様が弟子たちや 大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲 人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでく ださい」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとします。しかし、その男は黙 りません。ますます大声で叫び続けました。「ダビデの子よ、わたしを憐れんで ください」と。
力ある王を求める人々
どうして多くの人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。うるさかったか ら?しかし、一人の叫び声などたかが知れてます。まさか皆が沈黙し黙想しなが ら歩いていたわけではないでしょう。ガヤガヤとざわめきながら大勢の群衆が移 動していたのです。ならば叫んでいる物乞いなど無視してそのまま通り過ぎたら いいだけの話ではありませんか。
人々が黙らせようとしたのは、明らかにその男が無礼だと思ったからでしょう。 例えばローマの皇帝が行進をしている時に道端に座っている物乞いが「憐れんで ください」と突然叫び出して直訴したら、絶対にその男は制止されるでしょう。 逮捕され連行されるか、少なくとも余所に連れて行かれて放り出されるに違いあ りません。この場面はそれに近い。イエス様の一行のエルサレム上りは、人々に とってはまさに王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレム に入城するときです。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野 原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)と書かれているのです。 まさに王の入城ではありませんか。
そのように、人々にとってイエス様はまさに王様だったのです。いや、正確に 言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。イエス 様に従う群衆の数はエリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。 これは単なる巡礼者の群れではありません。単に過ぎ越しの祭りのためにエルサ レムへと同行しているのではありません。皆、イエス様が王となると信じてゾロ ゾロとついて行ったのです。その頃、ユダヤはローマの支配下にありました。し かし、イエス様は必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そ して、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を回復 してくださるに違いない。この御方はダビデの王座を回復してくださるに違いな い。そう信じていたのです。
もちろんそのことに一番期待していたのはイエス様が選ばれた十二人です。自 分たちは特別だと思っていますから。当然、イエス様が打ち建てる王国において も特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、今日お読みし た箇所の少し前にはこんなことが書かれているのです。「ゼベダイの子ヤコブと ヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただ きたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言っ た。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を 左に座らせてください』」(35-37節)。「栄光をお受けになる」とは、明ら かに「王となる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3 にしてくださいね、とお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れ てくる。当然、他の弟子たちは腹を立てます。皆、同じことを考えているのです から。
ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、イエス様が王と なることを期待したのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったので しょうか。どうしてイエス様がローマから解放してイスラエルの王国を再建して くださると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。それを 期待したのは、明らかにイエス様の力を見たからに違いありません。福音書には 数多くの奇跡物語が記されています。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が 解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々はイエス様のなさる一つ 一つの奇跡に計り知れない《神の力》の現れを見たのです。
力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉 大な御業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そ のような集団にとって、叫んでいる一人の弱い人など邪魔者以外の何ものでもあ りません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方 をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再び実現する御方 であるぞ。盲人の物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々 の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。
王の憐れみを信じた人
しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザ レのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。 顧みてくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男もイエス様が メシアであると信じています。彼は言いました。「ダビデの子イエスよ」と。で すから、彼もまたイエス様が王なる御方であると信じているのです。ダビデの子 孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、 その王は盲人の物乞いを憐れんでくださると信じているのです。
なぜでしょうか。彼はイエス様のことを伝え聞いて知っていたからでしょう。 そもそもイエスのことを知らなかったら「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出 すことはなかったのです。彼は既に伝え聞いて知っていた。問題はそこで彼が何 を聞いていたかです。何を聞きとっていたのか。単に神の力の現れを聞いたので はなかった。そうではなくてイエス様の「憐れみ」なのです。彼はイエス様の御 業を通して現わされた《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を 求めて叫んだのです。
先に申しましたように、目の見える人々はイエス様の奇跡に《神の力》を見た のです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけたのです。しかし、目の見 える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。否、見えていないこと が多いのです。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、伝え聞いたイエス様の話の 中に大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一 人の小さな者も見過ごされない神の憐れみです。 聞くだけだったこの男には分 かったのです。イエス様によって神の力の王国が到来したのではない。そうでは なくて、神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見え ないその目で確かに見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人 の人間にも目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体 現してくださるメシアがついに到来した!彼はそのことを心の内に既に見ていた のです。
だから彼は叫んだ。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたし を《憐れんでください》」と。ーーそして、この人は間違っていませんでした。 イエス様は立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。
見えるようになりたいのです
彼は躍り上がってイエス様のもとに来ました。イエス様はその人に言われます。 「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるよ うになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞い をしなくては生きていけなかったのも、その目が見えなかったからでしょう。さ らには、目が見えなければ、それは本人の罪のゆえか、それとも両親の罪のゆえ か、などと心ない言葉を投げかける人もいるものです。ですから、目が見えるよ うになりたかった。確かにそうでしょう。
しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょ うか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れである イエス様の姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来 を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。
彼の願いはかなえられました。イエス様は言われました。「行きなさい。あな たの信仰があなたを救った」と。続いて「盲人は、すぐ見えるようになった」と 書かれています。しかし、目が見えるようになった彼はそのまま立ち去りません でした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」 と書かれているのです。彼は開かれた目をもってイエス様の姿を追いました。彼 の目はイエス様を追いながら、なお道を進まれるイエス様について行ったのです。
書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終 わりにはならなかったことは容易に想像できます。見える目をもってイエス様の 姿を追って行った先には何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれている のはイエス様がエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサ レムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの 盲人は、イエス様に付いていったゆえに、その目でイエス様が十字架にかけられ 殺されるという出来事を見なくてはならなかったのです。
「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」 イエス様が捕らえられ、処刑される場面を目にしたとき、彼は心底そう思ったに 違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れ みなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられるこ とはなかったでしょう。
なぜこの物語が伝えられたのか。そのことを考えて改めて読みますときに、こ の盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと 物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名 前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者と して教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記さ れている、あの十二人のようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの 子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。
つまり十字架につけられたイエス様を目にした悲しみは、それで終わらなかっ たということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架 こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いとをもたらす十字架に他ならない ということを。そして、彼の目が開かれたのは、まさにその十字架を見るためで あったのだということを知ることとなったのです。そうです。彼は開かれた目で 確かに神の憐れみを見たのです。十字架につけられたキリストにおいて完全に現 わされた神の憐れみを見たのです。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲 として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを見たのです。彼 はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおい て到来したことを見たのです。
それゆえに、この男の物語は、「憐れんでください」という祈りと共に伝えら れることとなりました。そして代々の人々もまた、この人と同じように主を信じ て、いかなる時にも信頼して、憐れみを祈り求めてきたのです。主よ、憐れんで ください、と。繰り返し、繰り返し、この言葉を口にしてきたのです。主よ、憐 れんでくださいーーキリエ・エレイソン。私たちもまた、そのように祈って良い のです。あのバルティマイのように、必ず主は憐れんでくださると信じて、祈って 良いのです。