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「神の憐れみに留まる」

2010年9月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マルコによる福音書 14章10節~25節

 先ほどお読みした聖書箇所の直前に、ユダが祭司長のところに行ったことが書 かれています。ユダがイエス様を裏切りました。他の福音書には、ユダが受け取 ることになっていた金額が出ています。イエス様の値段は銀貨30枚でした。当 時の奴隷ひとり当たりの相場だと言われます。ユダはよりによって自分の師を奴 隷と同じ値段で売り渡したのです。そして、彼は仲間のところに戻り、全く素知 らぬ顔をして過ぎ越しの食事の席にも着いていた。それが、先ほどお読みした場 面です。

ユダの裏切り

 10節には、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとし て、祭司長たちのところへ出かけて行った。」と書かれています。「十二人の一 人」とわざわざ書かれているのは、「よりによってあの十二弟子のひとりである ユダが」という驚きのニュアンスを含んでいるのでしょう。はっきりしているこ とは、少なくとも最後の晩餐のこの席では、弟子たちの内、ユダの裏切りに気づ いていた者は一人もいなかったということです。誰も「ユダだ」なんて思ってい ない。みんな「まさかわたしのことでは」と言っていたのです。それほど、ユダ の裏切りというのは、誰にとっても意外な出来事、想像もできないような出来事 だったのです。

 そのように、ユダの裏切りは謎に包まれています。ですから、その後、様々な 憶測が飛び交うことになりました。なぜユダは裏切ったのか。古来からしばしば 言われてきたのは、ユダの内に、イエス様に対する失望があったのではないか、 ということです。弟子たちは皆、ナザレのイエスが力をもって世の権力を打ち倒 し、自ら王となってイスラエルの国を再建してくれるものと信じていました。し かし、そのような弟子たちの期待とは裏腹に、エルサレムに入城後、イエス様に は一向に立ち上がる気配が見られません。それどころか、自分は苦しみを受けて 殺される、などと言い出し始める。ベタニアで一人の女がイエス様にナルドの香 油を注いだときなどは、「わたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」 などと、気の弱いことを言っているわけです。一方、ユダヤの権力者たちがイエ スを亡き者にしようと画策しているとの噂も聞こえてくる。「この男を信じてつ いてきたわたしは間違ったのではなかったか」とユダは思った。そこでイエスを 売るに至ったのではないかということも考えられるわけです。

 もちろん、これは一つの推測に過ぎません。聖書には何一つ明確な理由は示さ れていないのです。もしかしたら、はっきりと理由が書かれていないことにもま た意味があるのかもしれません。実際、私たち人間の現実はそんなものではあり ませんか。罪を犯した時に、確かにいろいろな理由はあるような気がする。言い 訳もできないわけじゃない。しかし、本当の理由は往々にして本人にも分からな い。それこそ、わけが分からないままに、愛する人を裏切るような事をしてしま うのが人間です。ですから、ルカによる福音書では別の書き方がされています。 「イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」。結局、古代の教会は、 ある意味ではこうとしか説明できなかったのです。とにかく罪を犯させる力が働 いた。サタンが入った。その結果、ユダはイエス様を裏切ったのだ、と。

もっとも、サタンが入るのにはそれなりのプロセスがあるのでしょう。隙間があ るからサタンが入るのです。ほんの小さな心の隙間ができる。事はそこから始ま るのです。たとえばこういう事があります。先ほども触れましたように、この直 前には、ひとりの女性がイエス様にナルドの香油を注ぎかけたという物語があり ます。その時に、人々が文句を言うわけです。「なんのために香油をこんなにむ だにするのか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すこ とができたのに」。ヨハネによる福音書は、これを「人々」として一般化しない で、はっきりと「イスカリオテのユダが言った」と言っています。そして、この ようにつけ加えているのです。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心に かけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その 中身をごまかしていたからである」。

 イエス様の一行の財布です。大した金額が入っていたわけではないでしょう。 彼がごまかしていたにしろ、それほど大金を懐に入れていたわけではないと思い ます。しかし、そこには既に金入れを託してくれたイエス様の信頼に対する裏切 りがある。そんな小さいところから始まるのです。このくらい大したことではな いでしょう、と思えるようなところから始まるのです。そこに隙間ができている。 そこからサタンが入って、大きな裏切りの現実に至ることになる。そのようなこ とが確かにあると思いませんか。

イエス様の呼びかけ

さて、イエス様を裏切ったユダは、その後、素知らぬ顔をして仲間のところに戻っ てきました。そして、いつもと変わらず食事の席に着いていたのです。そうです。 誰も知らない。そう思いながら。ーー確かに誰も知りませんでした。一人を除いて は。そうです。イエス様を除いては。イエス様だけはユダの裏切りをご存じだっ たのです。一同が席に着いて食事をしていた時に、主はこう言われたのです。 「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をし ている者が、わたしを裏切ろうとしている」(18節)。

 それにしても、この言葉、変だと思いませんか。ユダの裏切りを知っていたの なら、その裏切りから身を守ることはいくらでもできたでしょうに。ユダの裏切 りの裏をかくことだってできたはずです。例えば、もしイエス様がここでユダを 指差して、「この男がわたしを裏切ろうとしている」と言ったなら、きっと他の 11人はユダを捕えて縛り上げたに違いない。みすみすイエス様を引き渡させは しなかったでしょう。あるいは皆、血の気の多い男たちです。ユダは酷い目に遭 わされたに違いない。殺されていたかもしれません。イエス様は既にユダの罪を ご存じなのだから、そのような形でユダの裏切りに対して鉄槌を下すこともでき たはずなのです。

 しかし、イエス様はあえてユダの名を口にしませんでした。ユダの裏切りに対 して報復するおつもりは毛頭なかった。イエス様はあえて、ユダの心をご存じの 上で、食事の席に着かせたのです。ただ「あなたがたのうちの一人」としか言わ ないものだから、皆、誰のことか分からない。「まさかわたしのことでは」と代 わる代わる言い始めました。しかし、ユダには分かったはずなのです。イエス様 が誰のことを言っておられるのか、はっきりと分かったはずなのです。いわば、 ユダだけがはっきりと分かる仕方で、イエス様はユダの心に語りかけておられた のです。「あなたのこと、分かっているよ。あなたがどのような仕方で私を裏切っ たか、分かっているよ」。ユダにはそう聞こえたに違いありません。そのように、 断罪し処罰を加えるのではなくて、自ら立ち返ることができるように、その心に 訴えかけておられた。それがイエス様のなさり方でした。

 イエス様がそのようにユダの名を口にしなかったのは、純粋にユダのことを思っ てのことでした。そうです、イエス様は裏切られた自分のことではなく、本当に ユダ自身のことを考えておられたのです。主は言われました。「人の子を裏切る その者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。ーー「その者 のためによかった」と。「ユダが生まれなければ、自分にとってよかった」と言っ ているのではないのです。イエス様は裏切られた自分の不幸を語っておられるの ではなく、そのまま進んで行くことがユダにとってどれほど不幸なことであるか を口にし、嘆いておられるのです。

 すべてを知っておられながらユダを食事の席に受け入れられたイエス様。その イエス様と共に食卓に着いているユダ。その姿に私たち自身が重なってまいりま す。私たちのすべてを知っておられるイエス様と共に着く食卓。私たちのことを 本当に心にかけ、純粋に私たち自身のことを考えてくださっているイエス様と共 に着く食卓。この礼拝堂に置かれている聖餐卓とはそのような食卓です。その聖 餐卓が置かれている礼拝堂に集められているとは、そのような食事の席に着いて いるということなのです。そこでイエス様は私たちの心に語りかけられるのです。 私たち自身だけが分かる仕方で語りかけられる。「それはわたしのことだ」と分 かるように、主は語りかけられるのです。

 ユダが着いていたその食卓。私たちが囲んでいるイエス様の食卓が何であるか は、今日お読みした22節以下に語られています。イエス様はそこでパンを取っ て、それを裂いてこう語られました。「取りなさい。これはわたしのからだであ る」と。そう言って、パンを渡されたのです。それはイエス様が、御自分をそっ くりそのまま与えてしまうということを意味していたのです。そして、事実その ことが、翌日、十字架の上で実現することになるのです。イエス様は、御自分の 肉が十字架の上で釘をもって裂かれることをよしとされたのです。そのようにし て、御自分のすべてを、罪の赦しとともに、与えようとしておられたのです。そ のことを語られて、パンを割いて手渡された。それがこの食卓です。また、イエ ス様は、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と 言われました。契約とは神との特別な関係です。罪によって壊されてしまった神 様との関係が再び結ばれるために、イエス様は血を流そうとしておられたのです。 イエス様は、罪の贖いの血を、手渡しておられたのです。それがその食卓でした。 つまり主の食卓とは、イエス様が神の愛と赦しを手渡される食卓なのです。それ は神の憐れみの食卓です。

 ユダはそのような神の憐れみの食卓にイエス様と共に着いていたのです。イエ ス様はそのような神の憐れみの食卓において、御自分の体と血とを、御自分の愛 と赦しと共に、ユダにも与えたかったに違いない。しかし、結果的には、ユダは そのイエス様の愛と赦しを受け取りませんでした。あくまでもイエス様に対して 心を閉ざし、心をかたくなにし、イエス様の呼びかけに背を向け、そして、夜の 闇の中に出ていってしまったのです。

「生まれなかった方が、その者のためによかった。」イエス様が人に対して「生 まれなかったほうが良かった」などと言われたのは、後にも先にもここだけです。 およそイエス様の口にふさわしからぬ言葉に思えますでしょう。しかし、そう言 わざるをえないほど、イエス様の愛に心を閉ざすこと、悔い改めない事、立ち返 ららないこと、罪のゆるしを受け取らないこと、神の憐れみから自らを締め出し てしまうことは、不幸な事なのです。それがどれほど不幸なことか、ユダには分 かりませんでした。それを一番よく知っていたのは、ーーイエス様御自身だったの です。

 ユダが招かれていたように、私たちもキリストの食卓に招かれます。今も私た ちはここにいます。ユダが、素知らぬ顔をして食卓に着いたように、私たちもま た、素知らぬ顔をして席に着いています。しかし、ユダのすべてをキリストがご 存じであったように、キリストは私たちのこともご存じなのです。私たちが何を 考え、何を語り、何をしてきたか、すべてご存じなのです。そして、それでもな お主はユダを愛しておられた。主は私たちをもまた愛していてくださる。結果的 にユダは主の愛と赦しを受け取りませんでした。私たちはそうあってはなりませ ん。主に立ち返り、罪の赦しを受け、ここから新しく主と共に歩み始めるのです。

 
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