「神はあなたを見捨てない」
2010年10月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 32章1節~14節
山の麓での出来事
今日お読みしました旧約聖書には、モーセが山からなかなか下りて来なかった と書かれています。モーセは何のために山に登ったのか。「十戒」の書かれてい る二枚の石の板を受け取るために山に登ったのです。24章16節を見ますと、 「モーセは四十日四十夜山にいた」と書かれています。「四十日」というのは大 変長い期間です。もしかしたらもう帰って来ないかもしれない。そう思ったとし ても不思議ではありません。そこで人々はモーセの兄であるアロンのもとに集まっ て来てこう言いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エ ジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分か らないからです」(1節)。この願いに応えて、アロンは若い雄牛の鋳像を造り ました。そして、人々はその前に築かれた祭壇に献げ物をささげ、祭りを行った のです。これが今日朗読した箇所の前半部分です。
「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」ーー彼らが「先立って進む 神々」の製造を求めた理由は何でしょうか。彼らは言いました。「エジプトの国 から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないから です」と。これが理由です。ここでモーセは「エジプトの国から我々を導き上っ た人」と表現されています。それは確かに間違いではありません。しかし、モー セは自分自身の力と働きによって、彼らをエジプトから解放したのでも、荒れ野 の旅を導いたわけでもないのです。それはモーセの力ではなく、神の恵みの御業 に他ならなかったのです。イスラエルの民は、その神の恵みを見せていただいた はずなのです。そして、彼らを解放し彼らを導き上ったのが神の恵みによるなら ば、約束の地へと導かれるのも同じ神の恵みによるのです。そのような神と民と の関係は、本来、モーセがいるから成り立つのではありません。モーセがたとえ どうなろうと、彼らと神との関係は変わらないはずなのです。
しかし、イスラエルの人々には、結局はモーセしか見えていませんでした。彼 らがモーセという人間にしか目を向けていなかったという事実が、ここで明らか になったのです。モーセの姿が目の前から失われることによって、そのことが明 らかになったのです。モーセは帰って来ませんでした。もしかしたら、二度と帰っ て来ないかもしれません。彼らは動揺しました。そして、モーセが失われること によって、神に信頼して生きる生活も、神の民としての秩序も崩壊してしまった のです。
これがいかに私たちにおいても身近な問題であるかは、私たち自身の教会生活 を考えれば分かります。もし牧師であれ、尊敬できる信仰者であれ、キリスト教 学校の先生であれ、そこに人間しか見えていなければ、同じことが私たちにも起 こります。教会の中に「人間の集まり」しか見えていなければ、同じことが私た ちにも起こります。人間との関係が揺らぐと信仰生活が揺らいでしまう。指導者 との関係が揺らぐと共同体の秩序も揺らいでしまうのです。
結局、目に見える人間と目に見える出来事にしか目を向けない生活は、目に見 えるものによって揺さぶられることになるのです。私たちは、目に見える人間や この世界の出来事を通して働かれる神の御業、神の恵みの御業にこそ目を向けな くてはならないのです。神様が恵みをもってなされたこと、神様が今なさってい ること、そして神様が成し遂げようとしておられることにこそ、思いを向けるべ きなのです。本来、信仰生活とは神の恵みの御業に目を向けてこそ初めて成り立 つのです。神への信頼と従順とは、神の恵みへの応答だからです。ただ人間との 関係によって成り立つ従順であるならば、その関係が失われた時に、その従順も 失われます。それは至極当然のことです。
モーセを見失ったイスラエルの民は「先立って進む神々」を求めました。不思 議だと思いませんか。モーセという指導者を失って、他の別の指導者を求めた、 というのならまだ分かります。神の言葉に従って生きるために、モーセに代わる 他の人を求めたというのなら話はまだ分かります。しかし、彼らは「先立って進 む神々」を求めたのです。「先立って進む」と言いましても、それは子牛の像な のです。子牛の像が先立って進むわけないじゃありませんか。それは結局自分た ちが運ぶのです。自分たちが望むところに運んでいけるものです。そのような像 によって、人は従順を要求されはしません。モーセという指導者がいたからこそ 成り立っていた従順な生活。それが失われた時、彼らはそこでもはや従順を要求 されない神、自分たちにとって都合の良い神を求めたということです。
それは彼らの行為にも現れています。彼ら子牛の像の前で「主の祭り」を行い ました。そこで彼らは犠牲をささげます。そして「民は座って飲み食いし、立っ ては戯れた」と書かれております。「戯れた」という言葉が性的なニュアンスを 持つことを、多くの学者は指摘します。恐らくそこで行われていたのは乱交です。 古代オリエントの豊穣神礼拝において決して珍しくはなかった行為です。それが 主の名において行われたのでした。それが神の恵みへの応答でないことは明らか でしょう。神への感謝から生まれた行為ではないことは明らかでしょう。このよ うに、モーセが失われた時、信頼と従順の生活も失われたのでした。神の恵みに 目を向けていなかったからです。
その時、山の上では
さて、山の麓から山の上へと目を移しましょう。今日の朗読箇所の後半部分で ある7節以下には、山の上における主とモーセのやりとりが記されております。 主はモーセに言われました。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き 上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、 それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジ プトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」(7-8節)。ここには主とイス ラエルの民との断絶が言い表されています。もはや主はイスラエルの民を「わた しの民」とは呼びません。7節には「あなたがエジプトの国から導き上った《あ なたの民》」(直訳)と書かれているのです。
神はそのような民に対する裁きを宣告されます。「わたしはこの民を見てきた が、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼 らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる 民とする」(9-10節)。これに対してモーセは主をなだめて、民のために執り 成しました。彼はあくまでもイスラエルが神の民であると訴えます。「主よ、ど うして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力 と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか」(11 節)。そして、「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直 してください」(12節)と願い求めたのでした。この執り成しと説得のゆえに、 「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(14節)。こ れが後半部分に書かれていることです。
実に奇妙なことが書かれていると思いませんか。私が奇妙だと言いますのは、 神様がモーセの説得に屈して思い直したことではありません。それよりも奇妙な ことが書かれているのです。主がモーセに対して「直ちに下山せよ」と命じてい ることです。
神様は彼らを「滅ぼし尽くす」と言っているのです。そして、モーセだけを残 し、彼から新しい民を造ると言っているのです。しかし、もしそのつもりである なら、どうして「直ちに下山せよ」と命じる必要があるでしょうか。滅ぼされる 民のところにモーセを戻らせても意味がないでしょう。そもそも、どうして民を 滅ぼそうとしていることをモーセに告げる必要があるでしょう。どうして、民を 滅ぼそうとする意志があることをモーセに告げた上で、彼をイスラエルの民のも とに行かせる必要があるのでしょうか。そんなことしなくても、神はすぐにでも イスラエルの民を滅ぼし尽くすことがおできになるのに!
主はわざわざ御自分の怒りを露わにされ、イスラエルに対する裁きを宣告され ました。まるで、モーセが執り成すことを期待しているかのようです。モーセが まだ引き留めてもいないのに、「今は、わたしを引き止めるな」と言われる。モー セが引き留めることを期待しているかのようです。何かとても奇妙な感じがいた しますが、しかし、この箇所について思い巡らしていますと、聖書の他の様々な 箇所が思い浮かんでまいります。ここだけじゃない。同じことを、主はイザヤに なさいました。エレミヤになさいました。エゼキエルになさいました。アモス、 ホセア、ミカ、などなど、要するに預言者と呼ばれる人々に対して、主は同じこ とをなさったのです。民の罪を明らかにし、民に対する裁きを明らかにし、それ を語られた上でなぜか神は預言者を人々に遣わされるのです。実に、ここに見る 主の姿は、聖書全体を貫いているのです。
考えて見てください。山の上において、主はモーセにただ十戒の記された二枚 の板を授けただけではありません。25章からこの直前の章まで、延々と書かれ ていることがあるのです。それは幕屋の作り方と礼拝の仕方です。主はモーセに 「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであ ろう」(25:8)と言われたのです。主は彼らと共に住み、彼らと共に歩もう としておられたのです。だから神は裁いて滅ぼすことを願ってはおられないので す。主が願っておられたのは、人々が主に立ち帰って生きることなのです。背く 人々のもとにモーセを遣わし、背く人々のもとに預言者を遣わされたということ は、神が彼らを決して見捨ててはおられないことを意味しているのです。神のも とには赦しがあり、救いがあるということなのです。
そのような神であるからこそ、最終的にはイエス・キリストを遣わされたので す。今日の福音書朗読で、主はこう言っておられます。「皆、この杯から飲みな さい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契 約の血である」(マタイ26:27-28)。今もなおそのように私たちに語られ ているのです。神は私たちを決して見捨ててはおられません。ここに聖餐卓が変 わらず置かれていること、今もなお教会において主の御言葉が語られ聖餐が行わ れていることは、そのしるしなのです。私たちはそのしるしが指し示している神 の恵みに立ち帰り、その恵みに目を向けて歩み始めるのです。