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「心の貧しい人々は幸いです」

2010年10月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章1節~12節

弟子たちへの言葉

 今日はマタイによる福音書5章の冒頭部分をお読みしました。新共同訳には親 切に小見出しが付いていますが、そこにありますように、マタイによる福音書の 5章から7章までは「山上の説教」と呼ばれる部分です。「イエスはこの群衆を 見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、 イエスは口を開き、教えられた」(1-2節)。原文では2節は「そこでイエスは 口を開き、《彼らに》教えられた」と書かれています。つまり近くに寄って来た 「弟子たち」に教えられたのです。

 そこには群衆もまたいるのです。今日の箇所の直前には「大勢の群衆が来てイ エスに従った」(4:25)と書かれていますから。なぜ大勢の群衆がイエスに 従ったかと言うと、理由がその前に書かれています。イエス様の評判がシリア中 に広まったからです。どのような評判か。病気を癒してくれる人としての評判で す。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取り つかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、こ れらの人々をいやされた」と書かれているとおりです。そのようにして、大勢の 群衆がイエスに従った。この大群衆を見て、イエス様は山に登られたのです。も ちろん群衆も付いていったことでしょう。しかし、そこで主は群衆全体に語りか けるのではなくて、近くに寄って来た弟子たちに語られた。それがこの5章から 7章の山上の説教です。

 ですから構図的にはそこに二重の輪があるのです。内側には弟子たちがいます。 外側には群衆がいます。内側にはイエス様の語りかけを自分自身に対する語りか けとして聞いている人々がいます。外側には、いわば外からそれを見ている人々 がいる。彼らはイエス様が弟子たちに語りかけるのを見ています。イエス様の言 葉をある種の「教え」として聞いています。その「教え」について外側から評価 します。その評価は彼らの反応として現れます。山上の説教の最後にはこう書か れています。「「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに 非常に驚いた」(7:28)。その教えはまことにユニークで驚くべきものであ る、というのは外側からの評価です。

 さて、この構図は今日も「山上の説教」に対して見られます。さらにはイエス 様の言葉のすべて、さらには聖書の言葉全体に対しても見られます。イエス様と その教えに対する外側からの評価は今日でも様々に語られます。今日も山上の説 教に代表されるイエス様の教えに驚きを覚えたり、魅力を感じたり、関心したり、 感動したりする人は少なくありません。しかし、どんなに肯定的な評価を下して いたとしても、その人がいる場所はあの群衆がいた場所であるかもしれません。 つまり外側の輪。

 いや、ここにいる私たち、もしかしたら長く教会生活をしている人であっても、 依然として身を置いているのは群衆がいる外側の輪であるかもしれません。外か ら見て、外から聞いて、外から評価して、判断を下して、それで終わり、という ことがいくらでも起こり得ます。

 私たちがキリストに従おうとするならば、キリストの弟子として「近くに寄っ て」行こうとするならば、イエス様の言葉を他人事ではなく、《私への語りかけ》 として聞かなくてはならないのでしょう。マタイは伝えられたイエス様の言葉を 記しました。福音書に記されている言葉は、明らかに群衆の位置から読まれるこ とを意図されてはいません。自分への語りかけとして読まれるように書かれてい るのです。

山上の説教の第一声

 そのように、《私への語りかけ》としてイエス様の言葉を聞く時に、まず耳に 飛び込んでくるのがこの言葉です。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は その人たちのものである」(3節)。これが第一声です。第一声は幸福の宣言で す。原文では「幸いなるかな!」という叫びから始まります。人はもはや不幸で ある必要はない。不幸な人として生きる必要はない。暗闇の中に留まっている必 要はない。「幸いなるかな」という叫びが繰り返される、その光の世界がイエス 様によって指し示されています。それはイエス様と共に既に到来していると言っ てもいい。主の御言葉を自分への語りかけとして聞く人は、主の御言葉によって その「幸いなるかな」の世界へと招かれているのです。

 「幸いなるかな」。その最初に挙げられているのは「心の貧しい人々」です。 「心の貧しい人々は、幸いである」。一度聞いたら忘れられないような強烈な言 葉です。それはあまりにも意外だからです。この言葉を説教題にして一週間外に 掲示していたのですが、通りがかりの人はどう思ったでしょうか。しかも、イエ ス様の言葉は私たちが考える以上にインパクトが強かったはずです。というのも、 ここで言われている「貧しさ」というのは、少々不足しているとか何かが足りな いというレベルの話ではないからです。これは物乞いを表現する言葉なのです。 いわば何も持っていない。そのような極度の貧しさを意味する言葉なのです。

 貧しければ他者によって満たされるしかありません。「物乞い」であるならば、 誰かに乞い願わなくてはなりません。頭を下げて、「憐れんでください」と言わ なくてはなりません。実際にイエス様の後についてきた群衆の中には、文字通り 物乞いをして生活をしていた人々もいたでしょうし、「憐れんでください」とい う言葉は彼らの日常の言葉であったに違いありません。そのように極度に欠乏し ていて、とにかく他の人に憐れみを乞わざるを得ない人は幸いでしょうか。どう 考えても幸いには見えません。誰に対しても「助けてください」とか言わずに済 む人の方が幸いに見える。ましてや、「憐れんでください」などと口にする人は 幸いに見えません。しかし、イエス様はそのような人々について「幸いなるかな」 と宣言されるのです。幸いなのは憐れみを乞う必要のない人ではなくて、頭を下 げて憐れみを乞わざるを得ないような人だと言うのです。

弟子たちが直面することになる貧しさ

 これが弟子たちの聞いた第一声です。主の言葉を自分への語りかけとして聞い ている人への第一声です。そうです、これが弟子たちに対して語られているとい うことに大きな意味があるのです。なぜなら、イエス様の弟子として、イエス様 の言葉を自分への語りかけとして生きていくならば、貧しさを経験しなくてはな らないからです。迫害の時代を生きていく弟子たちは、文字通りの意味で貧しさ を経験するということにもなるでしょう。ですから、ルカによる福音書の方では 「心の貧しい人々」ではなく、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたが たのものである」(ルカ6:20)と語られているのです。しかし、イエス様が 言っておられるのは単に経済的な問題の話ではないということは、この先を読ん でいきますと分かってきます。弟子たちが直面しなくてはならないのは、もっと 根源的な貧しさの話なのです。

 弟子たちは、ただ「幸いなるかな」を聞くだけではありません。その先に続く 言葉があるのです。この5章から7章だけでも通して読んでみてください。これ を《立派な道徳的な教え》であると思っている人は、それこそ外から眺めている だけの人です。自分自身への言葉として聴くならば、そうはいきません。

 例えば、13節以下に次のような言葉が続きます。「あなたがたは地の塩であ る」「あなたがたは世の光である」。このような言葉は、外から眺めている限り においては、美しい良い教えで済むのです。しかし、これを自分に対する語りか けとして聞くならどうでしょう。私たちがイエス様によって、実際に地の塩とし て、世の光として生きる人生へと引き出されるとするならどうでしょう。「その ように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派 な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と主は言 われるのです。これを他ならぬ私への語りかけとして聴いたらどうなるでしょう。 たちまち、私は窮地に立たされることになります。「あなたがたの光を人々の前 に輝かしなさい!」そんなことできるのですか。私たちが本気でそのように生き ようとするならば、私たちはどうしたって自分自身の貧困さ、さらには自分自身 のどうにもならない罪深さと対面せざるを得なくなるに違いありません。

 さらに私たちがイエス様の次のような言葉を聞くとしたらどうでしょう。「敵 を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。外から眺めている 間は、「すばらしい愛の教えだ」と言って感動していられるのです。しかし、私 たち自身への語りかけとなるときに、感動などしていられません。あなたを苦し めている人、あなたを痛めつけてやまない人を指して、「その人を愛しなさい。 その人のために祈りなさい」とイエス様は言われるのです。最も身近な者さえ真 実に愛することができないのに、いったいどうやって敵を愛したら良いのでしょ う。私たちの心のどこを捜したら、そのような愛があると言うのでしょうか。た ちまち私たちは自分自身の愛の貧困さと向き合わなくてはならなくなるではあり ませんか。

 しかも困ったことに、これはイエス様の言葉なのです。牧師が言っているだけ だったら、痛くも痒くもありませんでしょう。「そういうあんたはできるのか。 偽善者め!」そう言って斥けることは簡単です。「理想的ではあるけどね」と言っ て笑い飛ばすこともできるでしょう。しかし、これはイエス様の言葉なのです。

 「あなたがたは世の光である」と言われた方は、自ら「わたしは世の光である」 と語られたのです。そして実際にそのように生き、そのように死なれたのです。 敵を愛しなさいと言われた方は、自ら敵を愛したのです。自分を十字架につけた 人々、罵り、嘲っている人々を愛し、彼らのために執り成し祈られたのです。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ル カ23:34)。

貧しい人々は幸いだ

 私たちがこの御方と向き合い、この御方の語りかけを自らへの語りかけとして 聞き始めるならば、たちまち私たちは恐るべき根元的な貧しさを自覚せざるを得 なくなるのです。天に向かって叫ばざるを得なくなるのです。「主よ、わたしを 憐れんでください」と。

 いったい誰が自分の貧しさなど認めたいと思うでしょう。私たちは元来、貧し い自分など認めたくないのです。「憐れんでください」などと言いたくないので す。だから、群衆の位置に身を置いておく方が気が楽なのです。いっそのこと、 イエス様のもとを立ち去ってしまう方が気が楽であるかも知れません。そこでは、 自分の貧困さと向き合う必要もないでしょう。それなりの善人でいられるかも知 れません。他の人から親切だと言われ、感謝され、喜ばれる人間でいられること でしょう。そのような自分自身を喜んでいることができるかも知れません。その ほうがよほど幸せではないでしょうか。自分の貧しさを認めて生きるより、そこ そこの善人であることを自負して生きるほうが、よほど幸せではないでしょうか。

 いや、そうではないのです。イエス様は言われるのです。本気で主の言葉に耳 を傾け、自分への語りかけとして聞いて生きようとする人、それゆえに自分の罪 深さに涙し、愛の乏しさに涙し、まさに霊的な物乞いのような状態であることを 認めざるを得ない人に対して、主は言われるのです。「心の貧しい人々は、幸い である」と。なぜですか。主は言われます。「天の国はその人たちのものである。」 そうです、「自らの貧しさに嘆かざるを得ない人よ、あなたがたは幸いだ。最も 天の国から遠いと思っている人々よ、あなたがたは幸いだ。天の国はむしろあな たがたのものなのだ」と主は言っておられるのです。

 貧しい人は求めます。求めざるを得ません。求めなくては生きていけません。 だから神に求めます。神に依りすがるしかありません。一生、神に依りすがって、 神の恵みに依りすがって生きていかなくてはなりません。「主よ、憐れんでくだ さい」と一生言い続けながら生きなくてはなりません。

 しかし、そのような霊的な貧困の極みにおいて、「主よ、憐れんでください」 と求め続ける人生においてこそ、人は生ける神のリアリティを経験するのです。 天の国を経験するのです。自分の内にはなかったはずのものが人生に現れ出てく ることを経験するのです。まさに天から来たとしか言えない現実、貧しい自分自 身を通して神の愛が現れ、神の御業が現れるのです。そのとき、天の国はもはや 単に将来の希望ではありません。神は生きておられ、その神が関わってくださり、 恵みと命の支配のもとに生かしてくださることをーーまさに天の国をーー、今こ の世において経験することができるのです。

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。アーメン。

 
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