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「内なる光は消えていませんか」

2010年10月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 11章33節~36節

全身が輝いている人

 今日の福音書朗読では、「あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなけれ ば、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝い ている」(36節)というイエス様の言葉が読まれました。これだけ読みますと、 何か良く分からない不思議な言葉です。しかし、「全身は輝いている」という言 葉にはとても惹かれます。確かにそうありたいと思います。輝いている人。輝い ているクリスチャン。全体としても輝いている教会。そこそこ輝いているという 程度の話ではなくて、「全身が輝いている」という表現ですから、それはどれほ どの輝きでしょう。

 先ほどの言葉から分かりますように、「全身が輝いている」という表現は一番 最初の「ともし火」という言葉とつながっています。「ともし火」から「輝き」 へと一本の線が貫いている。その「ともし火」とは何でしょうか。イエス様御自 身です。イエス様は33節で「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下 に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と言っ ていますでしょう。ここだけ読みますと何のことやら良くわかりませんが、その 直前には「ここに、ヨナにまさるものがある」(32節)と言っておられます。 また、その前には「ここに、ソロモンにまさるものがある」(31節)と言って おられる。今日は細かい話は割愛しますが、イエス様は群衆に御自分のことにつ いて話しておられるのです。そして、さらに「ともし火」について語られたので す。いわばイエス様は、燭台の上に置かれた「ともし火」だと言うのです。イエ ス様は穴蔵の中や升の下に置かれているのではなく、誰もがその光を見ることが できるように燭台の上に置かれた、そのような「ともし火」だと。

 「ともし火」であるイエス様の放つ光は、神の愛の光です。イエス様は、いわ ば神の愛の光を輝かせるためにこの世に置かれた「ともし火」なのです。イエス 様は言葉をもって神の愛と赦しを語られました。いや、言葉をもって語るだけで なく、その行動をもって語られました。帰ってきた放蕩息子を喜んで迎える父の 話をされたイエス様はまた、自ら罪人たちと食事を共にされました。汚れている 者とされている人に手を置き、長く苦しんできた病める人々を癒されました。神 の権威をもって、罪の赦しを宣言されました。最終的には、父の御心に従って十 字架への道を歩まれました。神が私たちを赦すため、この世の罪の贖いを成し遂 げるために十字架におかかりになりました。神は確かに御自身に背いたこの世界 を愛された。神は私たちが罪人であるにもかかわらず、私たちを愛してください ました。キリストを通して御自身の愛を現されました。イエス様という存在は、 まさに神の愛の輝きそのものでした。イエス様が「ともし火」であるとはそうい うことです。ともし火は燭台の上に置かれました。

 その「ともし火」であられた御方が、「あなたの全身は輝いている」と言われ るのです。イエス様がそう言われる時、それはまさにイエス様と同じ光によって 輝いている、天からの光、神の愛の光で輝いているという意味なのでしょう。な らば私たちはそのように輝いて生きることを求めてよいし、求めるべきなのでしょ う。私たちには確かにいろいろな願いを持ち、いろいろな求めがあり、実際に神 様に必死に願い求めていることもある。いろいろな夢を持ち、夢を追い求めて必 死に努力している人もあるでしょう。しかし、何にもまして本当に追い求めるべ きことは、何をするにしても、どのような状態にあるにしても、健康であろうが 病気であろうが、若い人であろうが年を取っていようが、主が言われるような 「全身が輝いている人」となることなのでしょう。青年たちにとっては「何にな るか」が重要であるかもしれないし、お年を召した方にとっては「どのような老 後を送るか」が重要であるかもしれませんが、それ以上に重要なことは「どのよ うな人になるか」でしょう。本当の意味で輝いている人、天からの光、神の愛の 光で輝いている人、その輝きによって多くの人が神の愛を知るようになる、その ような人になること。そのことをこそ、追い求めるべきではありませんか。

目が濁っていると

 では、どうしたらよいのでしょうか。イエス様はこう言っておられます。「あ なたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べな さい」(34-35節)。これもまた分かりにくい言葉です。しかし、一つのこと ははっきりしています。体が明るいか暗いかは、輝いているかいないかは、「目」 の問題だと言うのです。目が澄んでいるか、濁っているかの問題だと。その「目」 の話ですが、昔の人は「目」を体の「窓」のように考えていたようです。確かに 目をつぶると真っ暗になる。目を開けると光が再び入ってくる。そのような窓が 澄んでいるか、濁っているかで明るさも違ってくる。確かにそうなりますでしょ う。

 先ほど、イエス様は「ともし火」だと申しました。燭台の上に置かれた「とも し火」だと。燭台ということを考えますと、通常は家の中にあるではありません か。実際、「入って来る人に光が見えるように」と書かれている。ここまでは家 の中にある燭台のイメージです。確かに聖書は他の箇所においても「わたしの内 なるキリスト」について語っています。それは正しい理解です。しかし、ここで 「ともし火」が中にあるというイメージで読むと話が見えなくなるのです。主は 明らかにここで人の外に立っている存在として語っておられるからです。「とも し火」としてのイエス様は外におられるのです。いわば窓の外にともし火がある。 光は「窓」を通して入ってくる。そのようなイメージなのです。ですからその場 合、「窓」がその人にとって「ともし火」であるとも言える。光は「窓」から入っ てくるのですから。それゆえに主は言われるのです。「あなたの体のともし火は 目である」と。

 だから実際にはともし火は変わらず輝き続けていても、目の状態で光が入りも すれば入らなくもなる。明るくもなり、暗くもなる。ここに語られているのはそ のような話です。つまり、私たちが明るいか暗いか、輝いているか輝いていない かは、「ともし火」であるイエス様の側の問題なのではなくて、私たちの「目」 の状態、すなわち「窓」の状態によるのだ、私たちの側の問題なのだ、というこ となのです。

 イエス様の側は変わりません。「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升 の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」と 言われたように、イエス様は自らを燭台の上に置かれました。イエス様は秘密結 社を作りませんでした。イエス様は語るべきことを常に公に語っておられました。 たとえ当時の宗教家たちの妬みや反感を買い、憎まれることになろうとも、イエ ス様は罪人と共に食事をし、罪の赦しを宣言し、神の圧倒的な愛の支配が到来し ていることを言葉と行動をもって宣べ伝えられたのです。

 いや、イエス様は復活の後もなお燭台の上のともし火であり続けられました。 教会を通して主は語り続けられ、イエス様御自身とその救いについて、世界中に 語り伝えられることを良しとされました。そして、現に極東の地にある日本にさ え、キリストの福音は語り伝えられました。今でも主の日の礼拝は公になされて います。教会における説教は公に語られています。頌栄教会では毎週の説教はイ ンターネットで公開されていますし、インターネットでのアクセスがない人のた めに印刷して必要な人にはお配りしています。礼拝のみならず、様々な集会もま た用意されている。人は聴こうと思えばいくらでも聴くことができるでしょう。 さらに言うならば、少なくともこの国においてはキリストを伝えるための書物は 自由に出版することができるし、キリスト教書店に行けば、選ぶのに困るほどの 出版物が溢れている。その意味でイエス様はこの国においても燭台の上のともし 火であり続けられましたし、いまもそうあり続けておられます。

 なのに私たちが暗いとするならば、それは「ともし火」が隠れてしまっている からではなく、私たちの目の問題なのです。「目が澄んでいれば、あなたの全身 が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と主は言われるのです。「澄んでいる目」 とは「一心に向けられた目」を意味します。素直に真実に一心にイエス様に向け られた目のことです。そうしますと「濁った目」(直訳すると「悪い目」)とは、 もはやそのようにはイエス様に向けられなくなった目のことでしょう。

 かつてイエス様と出会ったとき、イエス様のことをいつもいつも考えて、イエ ス様のことを知りたくて知りたくて、福音の真理を知りたくて一生懸命聖書を読 み、説教に耳を傾けていた人。朝に夕に祈りの時を持ち、神の愛の光が入ってく るようにと窓を全開にして、とにかくひたすら一心に、イエス様に向けて、神の 愛の光に向けて開かれていた目。しかし、それが同じ状態にあるとは限りません。 いつの間にかその目が濁ってしまった、ということが起こります。他のあらゆる ものに心を奪われ、心が散り散りになり、イエス様を求めなくなってしまった。 明らかに目から光が入ってきていない。かつて内側に満ちていた神の愛の光が、 いつの間にやら暗くなってしまっている。生活から天の光の輝きが消えてしまっ た。私たちに、そんなことが起こっているかもしれません。もちろんいろいろ理 由はつけられるのでしょう。あの人が悪い、この人が悪い、あの出来事さえなけ れば、などなど。今の状態になった理由はいろいろ挙げられる。しかし、本当は 分かっているはずです。目が濁ってしまっていること。それで暗くなっているの だということ。

 イエス様は言われました。「だから、あなたの中にある光が消えていないか調 べなさい」と。「あなたの中にある光」と言っても、それはもともとあった光で はありません。一心にイエス様に向かっていたときに、「ともし火」から入って いた光です。その光が暗くなっていませんか。それを点検しなさいと主は言われ るのです。

 今日は大掃除の日です(*)。窓も拭いてきれいにしましょう。そして、教会 の窓だけでなく、私たちの心の窓もきれいにしましょう。澄んだ目を取り戻しま しょう。一心にイエス様に向けられた目、イエス様に向けられた生活を取り戻し ましょう。「ともし火」は燭台の上にあります。私たちが主を求め、神の愛の光 を求めるつもりなら、その光はすぐ手の届くところにいくらでもあります。具体 的に始められることがあるはずです。その意味で、今日は私たち自身の大掃除の 日でもあります。

*頌栄教会では毎年10月の最終日曜日に大掃除を行っています。

 
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