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「主はわたしの羊飼い」

2010年11月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 詩編23編 1節~6節

 今日は聖徒の日。天に召された方々の御家族、御親族も大勢見えています。共 に礼拝できることをうれしく思います。私にとって頌栄教会における六回目の聖 徒の日です。頌栄教会に来てから(教会員以外の方を含めますと)33名の方々 の葬儀をしてきました。その度に繰り返しお読みしてきたのは、先ほどお読みし ました詩編23編の御言葉です。ですから、この詩編を読みますと実に多くの方々 の顔が思い浮かんでまいります。先ほど讃美歌において「この日、目を閉じれば 思い浮かぶのは、この友を包んだ主の光」(讃美歌21-385番)と歌いました ように、確かに一人一人を包んでいた「主の光」が思い起こされます。ここに集 まっている多くの方々にとりましても、この詩編は特別な詩編であるに違いあり ません。今日は、私たちの親しかった方々を愛して包んでいた主の光を御一緒に 思い起こしながら、この詩編を共に味わいたいと思います。

主はわたしの羊飼い

 はじめに1節から3節までをお読みします。

    賛歌。ダビデの詩。
    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
   主はわたしを青草の原に休ませ
    憩いの水のほとりに伴い
    魂を生き返らせてくださる。  (23・1-3a)

 「ダビデの詩」と書かれているこの詩編ですが、必ずしもあの旧約聖書に出て くるダビデ自らが作った詩とは限りません。ダビデにちなんで作られた歌という 意味合いでもありますから。しかし、ダビデにせよ、他の誰かにせよ、明らかに これはその人の若い日の歌ではありません。内容からすると、むしろ長い人生を 歩んできた人のその晩年における歌であると察せられます。

 この詩は、神様を羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として 歌ったものです。しかし、人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、 「わたしはここまで真面目な羊として羊飼いに立派に従ってきました」という歌 ではありませんでした。そうではなくて、「この羊飼いは多くの羊の面倒を見て いる羊飼いなのだけれど、なんとこんな私のことも心にかけ、導き、豊かに養っ てくださいました!」と言って喜んでいる歌なのです。新共同訳では「主は羊飼 い」という書き出しになっていますが、原文では「主はわたしの羊飼い」と書か れているのです。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」 という以前の訳で覚えておられる方も多いことでしょう。そう、主は確かに「わ たしの羊飼いだったし、今もわたしの羊飼いなのだ」と言って喜んでいるのです。

 しかし、それにしても「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とい う言葉は不思議な言葉でもあります。人は生きていれば、「欠け」を経験するこ とはいくらでもあるからです。不足する。乏しさを覚える。何かを失っていく。 何かが奪われていく。そのようなことが人生の途上でいくらでも起こります。あ る意味で、一つ一つを失いながら生きていくのが人生だとも言えます。親を失い、 友人を失い、自分の健康を失っていく。できたことができなくなっていく。そし て、最後はこの地上の命を失うことになる。失っていくものに目を留めれば、確 かにそうです。しかし、この人はそう言わない。むしろ、今、与えられているも のに目を留めるのです。そして、与えてくださっている御方に目を留めているの です。一緒にいてくれる羊飼いのことを考えているのです。ある意味で、羊にとっ ては羊飼いがいてくれれば十分なのです。

 こういう箇所を読みますと、やはり既に召された多くの方たちを思い起こしま す。辛いことがたくさんあるはずなのに口を開けば「感謝、感謝」と言っていた 人たち。与えられている多くのものを見て、「感謝、感謝」と言っていた人たち。 私たちも人生の最後に差しかかったときに、そう言える者でありたいと思います。 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と。

たとえ死の陰の谷を行くときも

 次に3節と4節をお読みしましょう。

  主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
    死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
    あなたがわたしと共にいてくださる。
    あなたの鞭、あなたの杖
    それがわたしを力づける。 (23・3b-4)

 羊飼いは羊を導いていきます。羊飼いなる神様は私たちを正しい道に導いてく ださいます。「正しい道」とは、「義の道」であり、滅びに向かう道ではなく救 いに向かう道です。救いに向かう道は必ずしも平坦な道であるとは限りません。 人に見えることと神様の見ていることは往々にして異なります。人間から見ると 険しくない道、平坦な道こそ幸いな道であり救いの道に見えるのです。しかし、 正しい道を知っているのは羊飼いであって羊ではありません。詩編23編の作者 はそのことを知っています。ですから「死の陰の谷を行くときも」とこの人は言 うのです。羊飼いが導いてくださるのだから「死の陰の谷」を通るようなことは ありません、とは言いません。

 実際にこの人はこれまでに幾度も「死の陰の谷」を行くような経験をしてきた のでしょう。私たちがこの世に生きる限り、「死の陰の谷」を通ることは避けら れない。いや、さらに言うならば、人は必ずその人生の最後には、本当の意味で 「死の陰の谷」を行かなくてはなりません。そのように、人は羊飼いに導かれて いても「死の陰の谷」を通ることになります。その時に、その「死の陰の谷」の 暗さにしか目を向けることのできないならば、それはとても不幸なことと言わざ るを得ないでしょう。家庭に問題が起こった時に、その問題にしか目が行かない。 病気になった時に病気にしか目が行かない。自分を苦しめる人がいる時に、その 苦しめる人にしか目が行かない。人生の終わりに差しかかった時に、「死」とい う現実にしか目が行かない。それはとても不幸なことです。

 私たちはそのような不幸な人として生きる必要はないのです。この人はこう宣 言しているのです。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」。どう して?「あなたがわたしと共にいてくださる」と言えるから。そうです、羊飼い と共に歩んでいるのです。羊飼いに導かれて歩んでいるのです。その御方に目を 向けたらよいのです。実際、私たちはそうするようにと、この礼拝の場に集めら れているではありませんか。そうです、ここで神に思いを向け、讃美を捧げ祈り を捧げ、御言葉に耳を傾けている。ならば、そのように生きていったらよいので す。

わたしの杯は溢れます

 さらに5節をお読みします。

    わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
    わたしの頭に香油を注ぎ
    わたしの杯を溢れさせてくださる。     (23・5)

 詩編23編はここから神様の描写の仕方が変わります。そこには羊飼いに代わっ て家の主人がいます。敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてな してくれる家の主人です。食卓を整えること、香油を注ぐこと、杯に酒を満たす ことは、すべて豊かなもてなしを表現しています。敵によって苦しめられている 客人を力づけるのです。また、特に「香油」は詩編45編などでは喜びの象徴と して出てきます。この家の主人のもとに身を置く者は、主人のもてなしを経験し、 力づけられ、喜びに満たされるのです。

 ここで、敵と闘ってくれる将軍のイメージが用いられていないことに注意して ください。確かにそのような神のイメージが他の聖書箇所では用いられているこ ともあります。しかし、ここでは違います。ここに描かれている主人の関心は、 敵に向かうのではなくて、逃げ込んできた人自身に向かっているのです。ここに は主が「敵の手から逃れさせてくださる」とも書いてありませんでしょう。要す るに、ここには苦しめる者を取り除いたり、苦しめる者から逃れさせてくださる 神様について語られているのではないのです。

 苦しめる者がいなくなれば人は幸いであり得るのでしょうか。問題が取り除か れて初めて喜びが来るのでしょうか。もしそうであるならば、生涯幸いではあり 得ないし、変わらぬ喜びの中に生きることは不可能でしょう。そうではなくて、 ここには苦しめる者のただ中にあって、そのような苦しい現実のただ中にあって、 豊かにもてなし、力づけ、喜びに満たしてくださる神様について語られているの です。「神様、食事どころではありません。苦しめられているのですから。彼ら を追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」そう言いますか。しか し、神様はあたかもこう言われるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊 の食事に与りなさい。力を得なさい。喜びを得なさい。元気になりなさい。私が そうしてあげよう。」これこそ信仰によって生きてきたこの人が繰り返し経験し てきたことなのだと思います。そして、私たちもまた、そのような恵みに与るこ とが許されているのです。

とこしえに主の宮に

 最後に6節をお読みします。

    命のある限り
    恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
    主の家にわたしは帰り
    生涯、そこにとどまるであろう。      (23・6)

 神様の恵みと慈しみは追いかけてきます。そうです。神の恵みは私たちが必死 に追いかけて、「これこれをしますから、与えてください」と言って取り引きを してやっと得られるものではありません。恵みと慈しみは追いかけてきているの です。往々にして私たちが目を向けていないだけ。気づいていないだけの話です。 この人にはそれが見えていた。私たちも見えるはず。

 そして、この人は恵みに追われてどこに向かっているのかも知っています。帰 るべきところを知っている。それは「主の家」です。6節の後半にある「生涯」 という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それ は永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養 い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠に そのお方と住まうのです。

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて 彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生 において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生 きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、 帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を 持つのです。

 
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