「わたしは必ずあなたと共にいる」
2010年11月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記 3章7節~15節
わたしはあるという者だ
今日の第一朗読は主がモーセに語られた言葉をお読みしました。主はモーセに こう言われたのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣 わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)。しか し、モーセは答えます。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに 行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」 (11節)。このように、神様は「あなたを遣わす」と言われるのですけれど、 当のモーセ本人は、奴隷の民イスラエルをエジプトから解放したいと切に願って いるような人物ではなかったのです。
いや、かつてはそういう時もあった、とは言えるでしょう。モーセはファラオ の娘の養子として、エジプトの王宮で育ちました。しかし、彼は自分がヘブライ 人であることを忘れませんでした。そして、その若き日に、同胞であるヘブライ 人たちを助けようと思い立ったのです。彼は同胞が重労働に服しているのを目に しました。エジプト人がイスラエルの人々を打ち叩いているのを目にしました。 モーセは激しく燃える心のゆえに、一人のエジプト人を打ち殺してしまいます。 それはある意味では、イスラエルの人々を解放するための戦いの開始でもありま した。しかし、ヘブライ人たちはモーセを受け入れようとはしませんでした。モー セは大きな挫折を経験することとなります。しかも殺人事件がファラオの知れる ところとなり、モーセはミディアンの地に逃亡せざるを得なくなったのです。彼 はミディアンの地で慣れない羊飼いをして暮らすことになりました。来る日も来 る日も羊を追って既に四十年。気付いてみれば、若き日に燃えていた情熱、同胞 を助けたいという熱き思いはもはやそこにありませんでした。この3章に見るの は、いわば燃え尽きた人モーセです。
しかし、そのモーセがある日のこと、いつものように牧草を求めて羊を追って いると、ホレブの山で不思議な光景を目にしました。柴が燃えている。しかし、 その柴が燃え尽きない。「どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」と言ってモー セはそこに近づきます。するとその炎の中から神がモーセに声をかけられたので す。「モーセよ、モーセよ」と。燃え尽きてしまったモーセは、燃え尽きない神 の炎の中から、神の語りかけを聞いたのです。そして、その燃え尽きない炎は誰 に対して燃え上がっているのかを知らされたのです。それが先ほどお読みした聖 書の言葉です。モーセが久しく忘れていた、いや忘れようとしていた、忘れてし まいたかった、あの苦しみ泣き叫ぶ人々に対して、神の燃える心は向けられてい たのです。
主はモーセにこう言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦 しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知っ た。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この 国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、 アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(7-8節)。
これがモーセの出会った神でした。そして、今も私たちに伝えられている主な る神です。その御方は私たち人間の苦しみに目を留めてくださる神様です。その 御方は、嘆き叫び求める声に耳を傾けてくださる神様です。この世における諸々 の痛みを知っていてくださる神様です。遠く天高いところに鎮座まします御方で はなく、私たちが這いつくばって生きているこの低きところに降ってきてくださ る神様です。この歴史の中に、私たちの現実の中に入ってきてくださる神様です。
神は自らの名を次のように言い表されました。「わたしはある。わたしはある という者だ」(14節)。そして、さらにモーセにこう言われたのです。「イス ラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたた ちに遣わされたのだ」と。14節の「わたしはある。わたしはあるという者だ」 という言葉は、以前の訳では「わたしは、有って有る者」となっていました。様々 に訳し得る言葉ですし、豊かな意味の広がりを持つ言葉であろうとも思います。 しかし、既に見てきたことから考えて、単に哲学的な意味における「絶対的な存 在」ということではなさそうです。私の恩師であります左近淑という旧約学者は、 これを「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳しました。私は時々左近先生 の肉声と共にその訳を思い出します。
神は、目を留め、耳を傾け、痛みを知り、そして降ってきて、たしかに苦しむ 者と共におられるのです。様々な神ならぬ諸力の支配下にあって、最終的には罪 と死の支配下にあって苦しみ嘆く人間と共におられるのです。もっとも低きとこ ろにさえ降られ、人と共にいてくださり、「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」 と語られる神なのです。
わたしはあなたを遣わす
そのように神様が、目を留め、耳を傾け、痛みを知り、降ってきて、「わたし がいるのだ、確かにいるのだ」と言われる神であるということを、神はこの世界 の現実において現そうとなさいます。どのようにして?人を用いることによって です。確かに救いを実現するのは神様です。神様の御業、神様がなさること。 「わたしが彼らを救い出し、わたしが導き上る」と主は言われるのです。しかし、 そこで主は人を用いられる。主はモーセに言われるのです。「見よ、イスラエル の人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫 する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。 わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9-10節)。
しかし、この主の言葉に対して、冒頭に見たように、モーセは難色を示すので す。考えてみれば無理もありません。逃亡者としてミディアンに逃れてきた身と はいえ、ささやかながらもモーセと家族にはそれなりに平和な生活があるのです。 彼にとっては、それで十分なのです。申し分ないのです。確かに、今でもエジプ トにおいては同胞であるイスラエル人が苦しみあえいで生きています。ファラオ が代替わりしても、奴隷の民を取り巻く状況は変わりません。依然として苦しみ は続いている。しかし、彼にとって今やエジプトは遠い世界なのです。苦しむ人々 も、遠くの世界の人々です。彼らの苦しみを忘れて生きることはできるのです。 羊と家族のことさえ考えていればよかったのです。そうしている限り、それなり に幸せに暮らせるのです。もう情熱だって残っていない。若さだって残っていな い。なのに主は「わたしはあなたを遣わす」と言われる。モーセでなくたって躊 躇せざるを得ないでしょう。
しかし、そんなモーセであることを主は知らなかったわけではないでしょう。 そのようなモーセに主はあえて出会われたのです。そのようなモーセを、いわば ホレブで待ち伏せしておられたのです。モーセは神に出会おうと思ってホレブに 来たわけではないのです。いつものように羊を追っていただけなのです。彼の予 定としては、いつものように羊を飼い、そしてやがていつもの場所に戻っていく はずだったのです。しかし、羊を追っているうちに神と出会ってしまった。神は ホレブで待っておられた。それゆえに、モーセは自分を用いようとしている神に 出会ってしまったのです。しかし、考えてみれば、私たちがここにいるのも同じ ことでしょう。私たちもまた、いつの間にかホレブに来てしまった。そして、私 たちの人生を用いようとしている神に出会ってしまったのです。
モーセは言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに 行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」 (11節)。私たちも言いたくなります。「わたしは何者でしょう」と。しかし、 主にとって、モーセが「何者であるか」は問題ではなかったのです。主にとって は、モーセの内にまだ情熱が残っているかどうか、力が残っているかどうかは、 どうでも良いことだったのです。人間から出たものはやがて消え去っていくから です。モーセはそのことを既に知っているはずです。ただ燃え尽きることのない 神によって為されたことだけが残るのです。あの燃える柴のように!
ですから神様は「わたしは何者でしょう」というモーセの言葉をあえて無視さ れます。その問いに答えようとはなさいません。代わりに主はモーセにこう宣言 されるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。そうです。モーセにとっ て決定的に重要なことは、彼が「何者であるか」ではないでしょう。そうではな くて、主が共におられることなのです。主が遣わされ、主が用いられるのですか ら。ですから、彼はただ神と共に生きていけば良いのです。神は、遣わされ用い られる者にとっても、「わたしはある」という御方だからです。
さて、この箇所を読みます時に、どうしても思い起こされるのはイエスによっ て派遣される弟子たちの姿です。一度深い挫折を経験した弟子たちを、復活のキ リストは再び集めて言われました。「わたしは天と地の一切の権能を授かってい る。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼ら に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべ て守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にい る」(マタイ28:18-20)。弟子たちは確かにそこにおいて、降って来られ た神、十字架の低きにまで降って来られた神の御前にいたわけでしょう。そして、 降って来られた神が、この世界において救いの御業をなすために、弟子たちを遣 わされたのです。「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」という約束を もって。
その約束を私たちもいただいています。モーセに起こったことは弟子たちに起 こったことであり、私たちに起こったことです。その御方は私たちをもこの世界 に遣わされます。私たちが生かされている場所、そこが私たちの遣わされている 場所です。必ずしもエジプトからイスラエルの民を導き出すようなことではない かもしれません。しかし、神は私たちをそこにおいて用いようとしておられます。 主は私たちにも言われるのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。