「忍耐と慰めの神、希望の神」
2010年12月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 15章4節~13節
今日お読みしましたパウロの手紙では、神様が二通りの表現をもって言い表さ れていました。一つは5節に見られます。「忍耐と慰めの源である神」。これは 「忍耐と慰めの神」というのが直訳です。もう一つは13節に見られます。「希 望の源である神」。これも「希望の神」というのが直訳です。「忍耐と慰めの神」 そして「希望の神」。今週はこれらの言葉を思い巡らしながら生活しましょう。
忍耐と慰めの神
私たちが信じる神様は、第一に、「忍耐と慰めの神」です。神が「忍耐と慰め の神」であることを知ることは、私たちの生活において決定的な意味を持ちます。 それはなぜであるかは、この「忍耐と慰めの神」へのパウロの祈りから分かりま す。こう書かれています。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリス ト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたし たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいます ように」(5-6節)。
「同じ思いを抱かせてくださるように」「心を合わせ声をそろえて、礼拝させ てくださるように」。これが祈り求めている内容です。それを神様に祈り求めて いるのは、簡単なことではないからです。事実、ローマの教会では、一つのこと を巡って対立が起こっていました。詳細は14章に書かれています。簡単に言え ば、キリスト者は肉を食べてもよいか、それとも食べてはいけないのか、という ことを巡っての意見の対立です。つまらない話に思えますか。しかし、往々にし て、人と人との対立は、ごく些細なこと、つまらないことを巡って起こるもので す。
ローマの教会の話を持ち出すまでもなく、私たち自身経験的に知っています。 同じ思いをもって生きられるようになること、容易なことではありません。礼拝 することですら、心を合わせて礼拝することは、簡単なことではありません。一 つになるためには、互いが互いを受け入れるということが必要になってきます。 ですから、7節に「互いに相手を受け入れなさい」と書かれていますでしょう。 しかし、互いに相手を受け入れるということは簡単なことではありません。時と して相当な忍耐を必要とします。
私たちは皆、忍耐することを好みません。水が低い方に自然に流れるように、 人は自然と安きに流れます。建て上げるよりは壊すほうに、一つになろうとする よりは、分裂する方向へと自然に向かいます。そのようにして、似た者たち、も ともと同じ考えを持ち、もともと同じ感じ方をする者たちだけで共にいることを 求めます。それは共同体の分裂という形で起こりますし、異質な者の排除という 形を取ることもあります。自分自身が出て行くという形を取ることもあるでしょ う。いずれにせよ、忍耐を要する関係など、初めから切ってしまった方がよいと 思うのです。そのように、私たちの自然の性質は忍耐を欲しません。安易な逃げ 道を求めます。
しかし、忍耐を要する人間関係から私たちが逃げ回って生きることを、神様は 望んでおられない。神は、互いに異なる者が共に生きることを望んでおられるの です。さらには、互いに異なる者たちが、心を合わせ声をそろえて礼拝する者と なることを望んでおられるのです。教会という存在自体が既にそのような神の心 が表れです。教会はもともと同じ思いを抱いている者が「集まった」のではあり ません。キリストにより、背景の異なる様々な者たちが「集められた」のです。 何のために?集められた者たちが、心を合わせ声をそろえて主を礼拝するために です。
そのように、神様は私たちが互いに相手を受け入れ、一つとなっていくことを 求めておられる。そのような神様であるからこそ、神様はまた私たちに対して、 「忍耐と慰めの神」となってくださるのです。その第一の意味は、新共同訳にあ るように、「忍耐と慰めの源である神」ということです。私たちに必要な慰め (励まし)を与え、忍耐を与えてくださる神様であるということです。神様が望 んでいることの実現に必要なものは、神様が与えてくださるのです。
具体的にはどのようにして与えられるのでしょう。それは聖書を通してです。 4節にこう書かれているとおりです。「かつて書かれた事柄は、すべてわたした ちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学ん で希望を持ち続けることができるのです」(4節)。しかし、「聖書から忍耐を 学ぶ」と言いましても、それは単に「忍耐しなさい」という戒めを学ぶという意 味ではありません。それでは「忍耐を学ぶ」ことにはなっても「慰めを学ぶ」こ とにはならないでしょう。そうではなくて、聖書を通して、忍耐をキリストから 学ぶのです。忍耐を神から学ぶのです。忍耐強い神から学ぶのです。その意味で は、「忍耐と慰めの神」とは第二に「忍耐強く慰めに満ちた神」という意味です。
実際、私たちが聖書を通して出会う神、キリストの内に見出す神は「忍耐強く 慰めに満ちた神」ではありませんか。神がまず私たちを耐え忍んでくださいまし た。神がキリストにおいて、私たちを赦してくださいました。神がキリストにお いて、私たちを受け入れてくださいました。私たちは当たり前のように今ここに いますけれど、ここに私たちが集まっていること自体、まさに神の忍耐と慰めの 賜物なのでしょう。本来ならば、遠の昔に打たれて滅ぼされていても不思議でな い私たちではありませんか。しかし、神は確かに私たちに対して「忍耐と慰めの 神」でした。そのようにキリストがまず私たちを受け入れてくださいました。神 がまず私たちを受け入れてくださいました。
その神の忍耐と慰めを学んでいくことこそ、私たちの忍耐の源です。私たちは そのようにして、忍耐と慰めの源である神から、忍耐と慰めをいただきながら、 自分とは異なる他者を受け入れて生きるのです。バラバラになる方向にではなく、 一つになる方向へと生きるのです。「忍耐と慰めの神」こそが源泉です。そのこ とを私たちは忘れてはなりません。水源から切り離された川は涸れてしまいます。 私たちの忍耐が神から切り離されるならば、それは干乾びたやせ我慢にしかなり ません。干乾びた我慢は対立を克服する力を持たないばかりか、むしろ怨念を増 大させ亀裂を深めるだけです。干乾びたやせ我慢ではなく、命に満ちた、真に力 に満ちた忍耐と慰めを神からいただきましょう。神に求めましょう。神は「忍耐 と慰めの神」なのですから。
希望の神
そして、私たちが信じる神様は、第二に、「希望の神」です。この「希望の神」 にパウロはこう祈っています。「希望の源である神が、信仰によって得られるあ らゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれ させてくださるように」(13節)。この祈りに見られる「喜び」にしても「平 和」にしても「希望」にしても、私たちが生きるために不可欠なものでしょう。 それらを与えてくださるのは「希望の神」。私たちの信じている神は、そのよう な「希望の神」です。
しかし、私たちは「忍耐と慰めの神」こそが「希望の神」なのであるというこ とを忘れてはなりません。別々の神々ではないのです。唯一の神が、忍耐と慰め の神であり、希望の神なのです。忍耐と希望は切り離せない。それは既に4節に おいて「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けるこ とができるのです」と書かれていたことからも分かります。「忍耐と慰めの神」 を知ってこそ、「希望の神」をも知ることができるのです。
先にも申しましたように、神は互いに異なる者が共に生きることを望んでおら れる。互いに異なる者たちが心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望 んでおられるのです。パウロの時代において、互いに異なる者たちの代表的実例 と言えば、それは「ユダヤ人」と「異邦人」です。最初の教会にはユダヤ人しか いませんでした。しかし、神のビジョンの中には初めからユダヤ人以外、すなわ ち異邦人たちも存在していたのです。神はその両者が共に心を一つにして礼拝す ることを望まれたのです。パウロは次のような旧約聖書の言葉を引用しています。 「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(10節)、「すべての異邦人よ、主をたたえ よ。すべての民は主を賛美せよ」(11節)。それら旧約聖書の言葉が描き出し ているのは、まさに全世界が心を合わせ声をそろえて主を礼拝している姿です。 キリストが来られたのは、まさにそのためであったとも言える。「それは、先祖 たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにた たえるようになるためです」(8-9節)と書かれていますでしょう。
一方、私たちが現実に周りを見回せば、それとは正反対の世界があります。そ こには人間の罪のゆえにズタズタに引き裂かれた世界があります。互いに傷つけ 合い、憎み合い、殺し合っている世界があります。最も小さな単位であるはずの 家族でさえ喜びをもって共に生きることはしばしば困難です。親と子は引き裂か れ、夫婦の関係も引き裂かれている。それがこの世界の姿です。
しかし、私たちはもう絶望しなくてよいのです。もう諦めたり、逃げ出したり、 投げ出したりしなくてよいのです。この世界はキリストの血潮が流された世界だ からです。神が御子の血を流してまで、赦し、受け入れ、忍耐をもって担おうと しておられる世界だからです。そのように、私たちをも赦し、受け入れ、忍耐を もって担っていてくださるのです。だから私たちは、神のビジョンの中に既にあ るように、身近な人間関係においても、さらには全世界についても、一つとなっ て心を合わせ声をそろえて礼拝するその時を希望をもって待ち望んでよいのです。 私たちは、希望をもって喜んで生きてよいのです。「忍耐と慰めの神」は「希望 の神」でもあるからです。
私たちが身近な小さな対立を乗り越え、互いに受け入れ合うことなど、ある意 味では世界の片隅における本当にちっぽけなことかもしれません。しかし、その 小さな現実の中で私たちが「忍耐と慰めの神」と共に生きていくことは、この世 界に「希望の神」を指し示すことでもあるのです。「忍耐と慰めの神」に祈りつ つ、心を合わせ声をそろえて教会が礼拝していることは、この世界に「希望の神」 を指し示すことでもあるのです。私たちは「忍耐と慰めの神」から命に満ちた、 真に力に満ちた忍耐と慰めを神からいただきましょう。私たち自身がまず「希望 の神」を知り、「希望の神」をこの世界に指し示す私たちとなろうではありませ んか。