「嘆きに代えて喜びを」 2010年12月26日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 イザヤ書 61章1節~11節 既に実現していることを自分のものに  私たちは先週、クリスマスを共に祝いました。クリスマスは御子の降誕、キリ ストの到来の祝いです。そのようなクリスマスを祝うということは、私たちの信 仰告白でもあります。私たちは、この世界が既にメシアの到来した世界であると 信じています。神の救いが到来した世界であると信じています。神は、その独り 子をお与えになったほどに、世を愛された。この世界は、神に愛されている世界 であると信じています。さらに言うならば、クリスマスを祝うことは、この世界 に対する信仰の宣言であり、宣教でもあります。  悪魔は絶望を持ってきて、この世界に望みはないぞ、お前の人生に望みはない ぞ、と言うかもしれません。依然として罪と死が力を振っている世界を見せて、 救いはどこにもないぞ、と言うかもしれません。しかし、私たちはクリスマスを 祝って信仰を宣言します。この世界は既に救い主が到来した世界であると。そし て、私たちはクリスマスに続いて、やがてレントもやってくるしイースターもやっ てくることを知っています。続いてペンテコステの祝いもやってくる。この世界 は罪の贖いの十字架が立てられた世界であり、キリストの復活によって死が打ち 破られた世界であり、聖霊が降臨して力強く働いておられる世界です。ですから、 私たちは一年中喜び祝いながら信仰を告白し、救いを宣言し宣べ伝えていくので す。  そのようにクリスマスを祝ったばかりの私たちは、今日イザヤ書61章を開き ました。これもまた実に相応しいタイミングであると言えます。イエス様が故郷 のナザレに戻ってこられた時、会堂においてイエス様が朗読されたのがこの箇所 でした。そして、主はこう言われたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなた がたが耳にしたとき、実現した」と。そうです、既に実現したのです。そうです、 イエス様はまさに油注がれたメシアとしてそこに立っておられたし、イザヤ書に 書かれていた救いの言葉を「実現したこと」として宣言されたのです。  そのように、私たちは今日の聖書箇所を、既に実現したこととして聞いている のです。主がそう宣言されたのですから。貧しい人は良い知らせを聞く。打ち砕 かれた心は包まれる。捕らわれた人は自由にされ、つながれている人は解放され るのです。嘆いている人々には、灰に代えて冠がかぶせられ、嘆きに代えて喜び の香油が、暗い心に代えて讃美の衣をまとわせていただく。イエス様はそのため に到来したのです。既に到来したのです。  しかし、そこで大事なことが一つあります。先週、一人の小学生が信仰告白を しました。教会では、信仰告白式や洗礼式の時には聖書をプレゼントすることに しています。ですから、その子の聖書も前々から準備されていました。聖書が買 われ、お祝いの言葉も書き込まれる。その時点で、もうその聖書はその子のもの です。しかし、まだその子のものになっていないとも言える。信仰告白式が行わ れ、その子に聖書が手渡され、その子が受け取って初めて本当の意味でその子の ものとなります。しかし、さらに言うならば、その聖書はその子が一生懸命に読 んでこそ、その子のものとなるとも言えます。既に自分のものであるものを実際 に味わってこそ、本当の意味で自分のものとなる。そのように、大事なことは、 既に自分のものであるものを本当の意味で自分のものとしていくことです。救い についても同じことが言えるのです。  既にメシアは来られました。イザヤ書に書かれていることも、既に実現したこ ととして宣言されました。しかし、イエス様が「この聖書の言葉は、今日、あな たがたが耳にしたとき、実現した」と語られた時、それを聞いた人たちはどうし たか。「イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突 き落そうとした」と書かれているのです。どんなに心を込めて準備したプレゼン トでも相手が受け取らないということはあり得ます。既にキリストは来られまし た。この世界は神の救いが到来した世界です。人間が自分の力で救いを実現させ る必要はありません。あの子が自分でお金を払って聖書を買う必要がないように です。既に支払われているのです。そのように救いに必要なことはすべて神がし てくださいました。にもかかわらず、人がそれを受け取らないということはあり 得ます。受け取ってこそ、救いはその人のものとなる。さらに言うならば、メシ アの到来によって実現した救いを味わいながら自分のものとしていくプロセスも またあるのです。それが信仰生活です。 嘆きに代えて喜びを  そのようにメシアの到来によって既に実現している救いを味わいながら自分の ものとしていくために、重要なことはいったい何でしょうか。今日は語られてい る多くのことの内、一つのことだけに注目したいと思います。それは「嘆きに代 えて喜びの香油を」という言葉です。今日の説教題はここから取りました。この 「喜び」は神が与えてくださる喜びです。救いの喜びです。しかし、この喜びは 「嘆き」を前提としているのです。ただ喜びを与えるのではない。「嘆き」に代 えて「喜び」を与えてくださるのです。ではその「嘆き」とは何か。これは「悲 しみ」と言い換えても良いと思いますが、それはいかなる「悲しみ」なのかを考 える必要があります。悲しみにもいろいろありますから。  そこで少し前を見ますと、「シオンのゆえに嘆いている人々に」とあります。 ここで語られている「嘆き」が何であるかを、この言葉がはっきりと示していま す。シオンとはエルサレムを指しています。実際、かつてエルサレムで嘆いてい る人たちがいたのです。なぜ嘆いていたのか。エルサレムが長く廃墟になってい たからです。バビロニアによって国が滅ぼされ、エルサレムも破壊されたのです。 そして長い間、廃墟となっていたのです。それだけ聞くならば、彼らは災いを嘆 いていたように聞こえるかもしれません。しかし、そうではないのです。その廃 墟を生み出したのは、バビロニアではなくて、自分たちの罪のゆえであることを 彼らは認識していたのです。神に背き続けてきたイスラエルの歴史が廃墟をもた らしたのであって、その中に自分たちもまたいることを認識していたのです。  つまりそれは災いを嘆き悲しんでいたのではなくて、神に背いてきた自分たち の罪を嘆き悲しんでいたのです。それは大きな違いでしょう。皆さん、私たちが 荒廃した世の中を見て嘆くのと、「これを作り出したのは私たちの罪だ」と言っ て嘆くのとは、大きな違いだと思いませんか。単に他者によってもたらされた災 いや不幸や不運に対する嘆きではありません。単に他の誰かを悪者にして、嘆い ているのではありません。この世の罪そして自分の罪に対する嘆きです。ですか ら「灰に代えて」という言葉も出て来るのです。それは悔い改めの姿です。彼ら はそれゆえに灰をかぶり、涙を流し、重く暗い心をその内に抱いていたのです。  さらに言うならば、そこに嘆きがあるのは、そのような罪が生み出した廃墟に ついて自分が全く無力であるからでしょう。自分の罪、この世の罪が生み出して いる現実に対して、どうすることもできない無力さに打ちひしがれているからで しょう。その前にいくつかの言葉が出て来ます。「貧しい人」「打ち砕かれた心」 「捕らわれ人」「つながれている人」。そこに表現されているのは、荒れ果てた シオンをどうすることもできない人々のあり様です。そもそも、自分の力でどう にかすることができるなら、嘆いてなどいないのです。そうではないから嘆いて いるのです。  このように、ここに書かれている「嘆き」とは、現実を直視した嘆きなのです。 自分自身の現実に目を向けなければ、自分の罪を嘆くこともないでしょう。この 世界の荒廃や自分の人生の荒廃に目を向けなければ、自分の無力さを嘆くことも ないでしょう。そのように嫌なものからは目を背け続け、現実から逃げ続け、た だ面白おかしく生きていく。それもまた一つの生き方かもしれません。しかし、 その行きつく先が本当に救いに続いているとは思えない。真の喜びに続いている とも思えない。遅かれ早かれ行き止まりになるのではありませんか。どこかで現 実を直視しなくてはならない時が来る。そういうものです。  このように聖書は「嘆き」を決して否定的にとらえてはいません。むしろ大事 なこととして語っています。嘆くべきことを嘆くことができる。それはとても大 事なことなのです。そこにおいてこそ人は神の赦しを求め、神の救いを求め、ま た救いの神に寄り頼む者となるのです。そして、その神からこそ本当の喜びは与 えられるのです。神からの喜びは「嘆きに代えて」与えられるのです。神が喜び の香油を与えてくださるのです。救い主によってこそ与えられるのです。その喜 びは廃墟が廃墟でなくなった時に初めてやってくるのではありません。そうでは なくて、先に喜びが与えられるのです。神御自身が暗い心に代えて「讃美の衣」 をまとわせてくださるのです。  そしてさらにこう語られています。「彼らは主が輝きを現すために植えられた、 正義の樫の木と呼ばれる」(3節)。そして、彼らこそが「とこしえの廃墟を建 て直し、古い荒廃の跡を興す」と語られているのです。ここには、聖書の語る不 思議な世界があります。「私たちが建て直すのだ。シオンの未来は私たちの手に かかっているのだ」と言う人々が廃墟を建て直すのではないのです。自分の罪と 無力さを嘆いていた人たちが、廃墟を建て直すことなどできないと思っていた人 たちが、廃墟を建て直すのだと言うのです。無力で乏しい人たち、我が身一つど うすることもできない捕らわれ人たちこそが、廃墟を建て直すのです。それは神 御自身の御業としてなされるのです。ですから「主が輝きを現わす」と言われて いるのです。嘆くべきことを嘆いている人においてこそ、主は御自身の輝きを現 わされる。そして、主はそのような人を廃墟を建て直すために用いられるのです。    既にこの世界は救い主が到来した世界です。神の救いが到来した世界です。し かし、その救いを見て、味わって生きることになるのは、嘆くべきことを嘆いて いる人です。信仰生活の入り口はリアリストになることです。そしてただひたす ら主の救いに寄り頼む人です。そこにこそ主が与えてくださる喜びがあり、主の まとわせてくださる讃美の衣がある。その衣をまとう人を主はさらにこの世界の ために用いられるのです。「主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木」 として。主は私たちを通して、必ずご自身の輝きを現わしてくださいます。その ような信仰の歩みをこれからも共に進めてまいりましょう。