「美しい夢を抱いて生きる」
2011年1月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 51章1節~3節
新しい心をもって
新しい年を迎えました。今日は最初の日曜日です。この日の礼拝において、私 たちが耳にしているのは「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野 をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる」というみ言葉です。「そこには喜 びと楽しみ、感謝の歌声が響く」というのです。
皆さん、荒れ野はエデンの園になると思いますか。荒れ地が主の園になると思 いますか。普通はそうは思えない。私たちが目にしている荒れ野のような現実も、 エデンの園のように神の愛と祝福が満ち溢れたところになると思えるかと言えば、 なかなかそうは思えないのではありませんか。確かに1月1日になれば「新年明 けましておめでとう」と言い交わして、新しい年のはじめを祝います。しかし、 本当は何一つ変わっていないし、何一つ変わりやしない。荒れ野はいつまで経っ ても荒れ野なのであって、変わることはない。そう思いながら一年をスタートす る人は決して少なくないのでしょう。しかし、この年の最初の日曜日にここに集 まっている私たちには、「主は荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされ る」と語られているのです。
そうです。主はそうすることがおできになる。しかし、まず変わらなくてはな らないのは「荒れ野」ではないことをも私たちは知らねばなりません。まず変わ らなくてはならないのは、私たちを取り巻く現実ではないのです。そうではなく て、その荒れ野を見ている私たちが変わらなくてはならない。私たちの心が変わ らなくてはならないのです。
ですから今日の箇所は「わたしに聞け」という言葉から始まっているのです。 主の言葉を聞かなくてはならないのは、まず人間の心が変わらなくてはならない からです。主が私たちの周りに新しいことを始める前に、主はまず私たちの心に 新しいことを始めたいと思っておられるのです。「わたしに聞け」とはそういう ことでしょう。
新しい年を迎えました。しかし、まず新しくならなくてはならないのは私たち の心です。ここにいる私たちの心、人間の心なのです。いつのまにか諦めに縛ら れ、何一つ新しいことを期待できなくなっている私たち、美しい夢を見ることが できなくなっている私たち自身の心がまず変わらなくてはならない。新しい心を もって一年をスタートしましょう。新しい心とは信じる心です。古くなった諦め の心をゴミ箱に捨てて、新たに信じる心をもって歩み出しましょう。皆さんにとっ て荒れ野とはなんですか。荒れ地とはなんですか。どんなに一生懸命耕しても、 種を蒔いても、何一つ生えてこなかった、不毛の地はどこにありますか。それは 皆さんの家庭ですか。夫婦関係ですか。あるいは職場ですか。学校ですか。身近 な人間関係ですか。神の命の潤いを失って干からびてしまっている現実はどこに ありますか。それが何であれ、「荒れ野はエデンの園となる」「荒れ地は主の園 となる」。そのことを新たに信じる新しい心をもって、この一年をスタートいた しましょう。
その新しい心は、神の言葉によって生まれます。「わたしに聞け」と言われる お方の言葉によって生まれます。ですから、新しい心をもって一年をスタートし たいと思うなら、私たちは「わたしに聞け」と言われる方に思いを向けなくては なりません。荒れ野のことだけを考えていてはだめなのです。また、そこに立っ ている自分のことだけを考えていてはだめなのです。荒れ野にぽつんと私やあな たが立っている映像を思い浮かべても、そこからは何の希望も見えてきやしませ ん。そうでしょう。
私たちはまず主に思いを向け、主の語りかけに思いを向ける必要があります。 その意味で、私たちがこうして礼拝の場に身を置いているということは、極めて 正しいことなのです。新しい年の二日目。ここに私たちは身を置いて、主を礼拝 している。主を賛美し、主の言葉を聴こうとしている。そうあってこそ、私たち は新しい心をもって一年を歩み出すことができるのです。新しさは自分の内から ではなく、外から来なくてはなりません。外と言っても、この世界ではなく、もっ と外である天から来なくてはならない。人間の世界からではなく、神様から来な くてはならないのです。主に心を向け、主の語りかけを聴いて、新しい心をもっ て歩み出す。それがここに集まっている私たちがしようとしていることです。
切り出されてきた元の岩に目を注げ
そこで、「わたしに聞け」と言われる主が今日の箇所において何を語っておら れるのか、もう少し丁寧に聞いてまいりましょう。そこで語られているのは、 「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。あなた たちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ」ということです。 ここで考えなくてはならないのは、なぜここに「アブラハム」や「サラ」の話が 出てくるのか、ということです。結論から言うならば、この「アブラハム」や 「サラ」は、いわば信仰の原点なのです。そこに目を注げ、ということです。
3節に「シオンを慰め」という言葉がありました。「シオン」はエルサレムを 指します。この預言者の言葉を直接耳にしていたのはエルサレムにいた人々です。 「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め」とありましたが、彼らはまさに 「廃墟」を目の当たりにしていたのです。
エルサレムが廃墟となっていたのは、かつてバビロニアによって破壊されたか らです。バビロン軍により都もそこにあった神殿も破壊され、ユダの王国は滅ぼ され、主だった人々はバビロンに連れて行かれ捕囚となったのです。それから約 五十年を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。ペルシャ の王キュロスは勅令を発布し、捕囚民がエルサレムに帰還し、都を再建すること を許可したのです。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国 再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。しかし、 彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在し ていたところは瓦礫の山です。しかも、周りはこの再建を快く思わない敵たちに 囲まれております。彼らはこの荒れ果てた現実、まさに荒れ野としか言えない現 実に、希望を失いかけていたのでした。
しかし、そこで神は預言者を通して彼らに語りかけられたのです。「わたしに 聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた 元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム、あなたたち を産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子 孫を増やした」(1-2節)。
「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」と書かれ ています。しかし、大事なのはそれがどのようなプロセスであったかということ です。それは単純な自然的増加ではなかったのです。大事なポイントは二つあり ます。神はアブラハムに対して子孫を与えると約束されたこと。もう一つは、ア ブラハムとサラには子供がなかったということです。しかも、長い間なかった。 年老いてなお子供がなかった。そのようなアブラハムに対して、主は満天の星空 を見せてこう言われたのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数 えてみるがよい」。そして、さらに言われました。「あなたの子孫はこのように なる」と。創世記15章に書かれている話です。
イスラエル民族の祖先にするならば、既に子供がいる人を選んだ方が早いでしょ う。しかし、主はあえて可能性の見えない人を選ばれた。見込みのない人を選ば れた。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性が潰えていくように、約 束の実現を先延ばしにされたのです。
なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるよう にアブラハムを待たされたのでしょう。ーーそれはアブラハムが人から出るもので はなく、神から来るものを待ち望むようになるためだったのです。アブラハムが 人間の可能性にではなく、ただ神にのみ信頼するようになるためだったのです。 神はアブラハムにそのことを求められた。つまり、アブラハムを信仰の民の祖先 とするために、まずアブラハムに信仰を求められたのです。そして、アブラハム は神に対して、確かに信仰をもって応えたのでした。聖書は何と言っているでしょ うか。同じ15章にこういう言葉があるのです。「アブラムは主を信じた。主は それを彼の義と認められた」(創世記15:6)。
このアブラハムやサラを指して、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘 り出された岩穴に目を注げ」と主は言われたのです。これが原点なのです。人間 の可能性にではなくて、神に信頼すること。人間の目から見て終わりであったと しても、神にとっては終わりではない。人間の可能性が潰えた《終わり》を、新 しい《始まり》とすることのできる神を信じること。それこそが、「切り出され てきた元の岩」であり、「掘り出された岩穴」なのです。廃墟を目にして立ち尽 くしている人々に、その廃墟を新しい始まりとすることができる神を信じること こそ、あなたたちが「切り出されてきた元の岩」ではないか、と主は語られるの です。
さて、彼らにとっての信仰の原点は、私たちにとってもまた信仰の原点です。 新約聖書において、パウロはこのアブラハムの物語を引用して次のように語りま す。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブ ラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべも なかったときに、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』 と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:17-18)。
それが教会の信仰でもあるのです。そうです、教会はイエス・キリストを通し てさらに明確にこの信仰に生きる者とされたのです。私たちは罪さえも死でさえ も終わりではない、絶望ではない、神はそれさえも新しい始まりとすることがで きると信じているのです。実際、キリストは死者の中から復活し、あの弟子たち に現れ、そこから教会を生み出されたのです。あの弟子たちとは、キリストの十 字架の前に粉々に打ち砕かれてしまった弟子たちです。もはやそこから何も生ま れようがない、燃えカスとなってしまったあの弟子たちです。しかし、その弟子 たちに復活のキリストは現れ、彼らの内に信仰を与えてくださった。そうして燃 えカスから教会が生まれたのです。そのような教会の信仰を私たちは共有してい るのでしょう。
神はこの新年最初の礼拝において、私たちにもまた、私たちの信仰の原点に目 を注ぐようにと語りかけておられる。そのことが為されてこそ、3節の御言葉も また私たちへの言葉となるのです。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰 め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、 感謝の歌声が響く」(3節)。廃虚を目の前にした帰還民は、信仰の原点なるア ブラハムとサラに目を注いだ時に、再び美しい夢を見、希望に生きる者とされま した。私たちもまた、アブラハムとサラに目を注ぎ、さらにはイエス・キリスト の十字架と復活に目を注ぐとき、同じ夢と希望に生きることができるのです。目 の前の荒れ野だけを見ていてはなりません。新しい信じる心をいただいて、ここ から新たに歩み出しましょう。