「なぜキリストは洗礼を受けたのか」
2011年1月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 3章15節~22節
正しい審きを行われる方は来られる
「民衆はメシアを待ち望んでいた」と書かれていました。人々は救い主を待ち 望んでいた。「メシア」というのはもともと「油注がれた者」という意味です。 その昔、王様が任職される時には、油が注がれたものでした。ですから「油注が れた者」と言えば第一には「王」です。人々が救い主として待ち望んでいたのは 何よりも力ある王でした。かつてのダビデのような力ある王でした。そして、正 しい審きを行ってくれる王でした。
力ある王を待ち望んでいたのは、彼らがこの世の力によって支配されていたか らです。ユダヤ人からすれば異教徒であるローマの皇帝に支配されていたからで す。それゆえに、メシアがローマ皇帝の支配を打ち破り、彼らを異教徒の支配か ら解放してくれるのを待ち望んでいたのです。メシアが失われたダビデの王座を 回復し、イスラエルの王国を建て直してくれることを待ち望んでいたのです。
また、彼らが正しい審きを行ってくれる王を待ち望んでいたのは、現実には正 しくない審きのもとに置かれていたからです。正義が実現していなかったからで す。神の律法に反することがまかり通っていたからです。そして、不義なる力に よって彼らは抑圧され、苦しめられ泣いていたからです。彼らを苦しめる者を誰 も裁いてくれなかったからです。だから、メシアが現れて正しい審きを行い、正 義を回復してくださることを待ち望んでいた。そのように、彼らは正しい審きを 行ってくれる力ある王を待ち望んでいたのです。
そのような民衆は、荒れ野に現れて説教していた洗礼者ヨハネについて、「も しかしたら彼がメシアではないか」と思っていました。なぜなら、ヨハネは正し いことを語っていたから。神の裁きについて力強く語っていたからです。ヨハネ の言葉には確かに力があった。その言葉を聞いた時に、ローマの兵士たちでさえ 「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたほどでした。ですから、 このヨハネが正義を語るだけでなく、正義を実現してくれるに違いないと民衆が 考えたのは無理もなかろうと思います。
しかし、ヨハネは民衆の期待を否定してこう言ったのです。「わたしはあなた たちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その 方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼を お授けになる」(16節)。来るべきメシアは私じゃない、と言ったのです。もっ と優れた方が来られる。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けにな る」と。
それは何を意味するのでしょう。恐らくヨハネがもともと意味していたのは、 「その方は、正しく裁きを行う」ということです。「聖霊」という言葉は「聖な る風」という意味にもなりますから。「聖なる風と火であなたたちに洗礼をお授 けになる」。だからその後に脱穀場の話が出てくるのです。「箕」なんて最近の 若い人は見たことがないかもしれません。インターネットで検索したら写真がい くつも出てくるので見てください。農夫は風が吹いているところで箕を持って麦 を打つ。すると殻とか藁屑は風に吹かれて飛ばされるので、麦粒が箕の中に残る のです。そのようにメシアは正しい審きを行って、正しい者と正しくない者とを 分けられる。聖なる風が吹いて麦と殻とを分けるのだ、というのです。そして、 麦は倉に入れられる。すなわち救いに入れられる。殻は消えることのない火で焼 き払われる、すなわち永遠の刑罰を受けることになる。そのようなメシアが来ら れる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない、とヨハネは語ったので す。
悔い改めなさい
しかし、ここで大事なポイントは、メシアがローマ人という麦だけを脱穀する とは限らないということです。異教徒麦だけを脱穀するのではない。「脱穀場を 隅々まできれいにし」というのですから、全部脱穀するのです。異邦人だろうが ユダヤ人だろうが、信仰者だろうが不信心な者だろうが、全部脱穀する。言い換 えるならば、神の前ではすべての人間が問われるということです。だからヨハネ はユダヤ人たちに対しても、救いを待ち望んでいた人々に対しても、「悔い改め よ」と言ったのです。「我々の父はアブラハムだ」などと言っているな、と。
「悔い改め」とは、方向転換をすることです。本来の自分に立ち帰ることです。 そして、神に立ち帰ることです。当たり前の話ですが、方向転換は方向が間違っ ていることを認めないとできない。苦しい生活を強いられてきた民衆が、ただ自 分の生活の惨めさ、苦しい現実を呪って嘆いているだけならば人生の方向を変え ることもない。自分以外の人間が皆悪いためにこのような苦しみを負っているの だ、と考える人は、方向転換をしようとはしないのです。そうです、当時の人々 に限りません。いつの時代であっても、世の中が悪い、社会が悪い、時代が悪い、 環境が悪い、親が悪い、夫が悪い、妻が悪いなどと言って、悪を自分以外のとこ ろにしか見ない人は、方向転換することもない。生きる方向がいつまで経っても 変わらないのです。
しかし、そうではない人々がいた。ヨハネの言葉を聞いて、他のところに悪を 見ていた人が、自分の内にある悪に気付いたのです。他の誰かではなく、そもそ も自分の生き方そのものが問題なのではないか、そもそも神との関係が正しくな いのではないか、ということに気付いた人々がいたのです。自分の人生の方向そ のものがおかしいのではないか、自分こそ赦しを必要としている罪人ではないか、 と気付いた人々がいたのです。そして、そのような人たちは、プライドもしがら みもかなぐり捨てて、ヨハネのもとに来て水の中に沈んだのです。私を赦してく ださい。これまでの私を葬ってください。新しく生きたいのです。そのような切 なる願いをもって水に沈んだのです。それがヨハネの宣べ伝えていた「悔い改め のバプテスマ」(3:3)でありました。
洗礼を受けられたキリスト
さて、そのような「悔い改めのバプテスマ」をキリストもまた受けられたのだ、 と今日の福音書朗読は伝えているのです。しかも当たり前のように、民衆がバプ テスマを受けたこととキリストがバプテスマを受けたことを並べているのです。 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(21節)と 書かれている。これは不思議なことです。キリストはなぜ洗礼を受けたのか。ま た福音書はなんのために、キリストが洗礼を受けたことを伝えているのか。とい うことで、今日の説教題は「なぜキリストは洗礼を受けたのか」となっています。
あのイエスというお方もまた、他の民衆と同様に自分の内に罪を自覚していた のだ。ーーそのようなことを伝えたいのなら、そこに続く話は余計です。そこで福 音書はさらにこう伝えているのです。「天が開け、 聖霊が鳩のように目に見える 姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの 心に適う者』という声が、天から聞こえた。」聖霊は審きの風としてではなく、神 の言葉をともなって静かに鳩のようにイエス様の上に降ったのです。そして、そ の言葉はこう語っていた。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。 これは単に三位一体の「父なる神」と「子なる神」という話ではありません。こ れに似た言葉は詩編2編に出て来ます。つまりこれは神の任職による王の即位を 意味する言葉なのです。確かにこの御方は来るべき王でありメシアなのだと語ら れているのです。すなわち、この御方こそ神の心に適う正しい方、この方こそ、 正しい審きを行う権威ある方ということです。
洗礼者ヨハネのメッセージによれば、メシアは「手に箕を持って、脱穀場を隅々 まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」、 そういう存在のはずでした。神の審判を具現するメシア。そうです。そのメシア は確かに来られたのです。しかし、その御方は箕を持ってはいなかった。実際に は脱穀を開始されなかった。それが今日の聖書箇所の伝えているところなのです。 そうではなくて、罪を裁く権威を持ったお方が、なんと!悔い改めて神の赦しを 求める罪人と同じ列に並ばれ、同じ水の中に沈まれたというのです。
それはまさに始まりでした。この福音書を読み進みますときに、やがて私たち はその御方を罪人たちのテーブルに見ることになります。正しい人たちはその様 子を見てつぶやきます。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一所にしている」 (15:2)と。さらに私たちはイエス様が人々からこうささやかれるのを耳に します。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」(19:7)と。し かし、それで話は終わりません。最終的に、私たちはどこでキリストを目にする のでしょうか。その方は二人の犯罪人と一緒にゴルゴタの丘に引かれて行きます。 「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行っ た。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架に つけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」(23:32-33)。
あの日、罪人と一緒に並ばれ、罪人と同じ水の中に立たれた主は、罪人と同じ ところにい続けてくださった。罪を裁く権威をお持ちのお方が、罪の赦しを携え て、共にい続けてくださったのです。いや、今もなおそのようなキリストとして 共にいてくださっている。キリストの体なる教会がこの世に存在し、福音が宣べ 伝えられ、今もなおバプテスマが行われ、今もなおキリストの食卓の周りに集め られて聖餐が行われているとはそういうことでしょう。ならば悔い改める罪人は 救われる。必ず救われます。そのようなキリストが共にいてくださるならば、必 ず救われるのです。その真理を今も指し示しているのが、キリストがバプテスマ を受けたというこの物語なのです。
そして、ヨハネの言葉によれば、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼を お授けになる」のでしょう。罪人と同じ水に沈んでくださったお方が、「聖霊と 火で洗礼をお授けになる」と言われるならば、それはもはや、ヨハネが考えてい たように、殻を吹き飛ばし焼き払われるという意味ではありません。そうではな くて、キリストは罪を赦されて新しく生き始めた人々を聖なる霊の力に満たして この世界に送り出されるのです(使徒1:8)。罪人を救うキリストの体として、 キリストの福音を携える者として。