「神に従うとき見えてくること」
2011年1月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 5章1節~11節
沖へ漕ぎ出して漁をしなさい
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5 節)。そうシモン・ペトロはイエス様に言っています。そうです。徹夜の苦労も すべて無駄に終わった。そんな朝の出来事です。実を結ばない労苦は心を疲弊さ せます。ペトロや他の漁師たちは身も心も疲れ果てていたことでしょう。本当な ら一刻も早く身を横たえて休みたかったに違いない。しかし、何もとれなかった 漁の後でも、網は洗わなくてはなりません。全く役に立たなかった網を洗わなく てはならない。それもまた虚しいことです。そのような報われない労苦の虚しさ は、私たちにも多かれ少なかれ身に覚えがあります。一生懸命やったけど、何に もならなかった。しかも後始末だけが山のように残っている。そんなことがある ものです。
そんな朝、憔悴しきった漁師たちが網を洗っている一方で、その湖の畔には朝 からエキサイトして大騒ぎしている夥しい人々の群れがありました。その中心に いたのは、ナザレのイエスと呼ばれるあの方です。イエスを追い求めて大勢の群 衆が押し寄せてきたのです。彼らはイエスの宣べ伝える神の言葉を聞こうとして 集まってきたのです。漁師たちは、そんな群衆の騒ぎを尻目に、黙々と網を洗っ ていたことでしょう。するとあの方が近づいて来られたのです。そして、勝手に シモンの舟に乗り込んだかと思うと、シモン・ペトロにこう言いました。岸から 少し漕ぎ出してくれないか。
勘弁してくださいよ。疲れているんですよ。そう言いたくもなるでしょう。し かし、実はこのシモン・ペトロ、イエス様と初対面ではないのです。しかも、借 りがある。4章を見ると、シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたときに、 イエス様に癒してもらったという話が出て来るのです。なので無下に断るわけに もいきません。ペトロはイエス様をお乗せして、舟を少し漕ぎ出すこととなりま した。
イエス様は舟に腰を下ろして群衆に教え始められました。ペトロははからずも 一番近いところでイエス様の言葉を聞く機会を得たとも言えます。良く聞こえた ことでしょう。同じ舟の中ですから。しかし、耳に届いていても、その言葉を自 分への語りかけとして聞かれるとは限りません。いや、同じ舟の中にいるとむし ろそれは難しい。イエス様と一緒に群衆に向いているのですから。「うん、うん、 いいこと言うなあ」と頷きながら聞いていたかもしれませんが、たとえそうであっ てもペトロにとってイエス様の言葉はあくまでも「群衆への語りかけ」でしかな かったに違いない。
耳に聞こえていても、それは所詮群衆への語りかけ。そんなことは今日の教会 でも起こります。聖書の言葉も聖書の解き明かしも耳には届いている。この会堂 は音響設備も整っていますから確実に耳に届いていることでしょう。しかし、イ エス様と同じ舟の中にいる気分で、すべての言葉を他の人に対する語りかけとし て聞いているかもしれません。
しかし、イエス様とペトロとのかかわりは、それで終わりはしませんでした。 それが今日の話です。イエス様はさらにペトロに話しかけられた。ある特定の具 体的な状況にいるペトロに語りかけられたのです。その特定の状況とは、夜通し 苦労して何一つとれなかっという虚しさの極みです。そこにいたペトロにイエス 様はこう言われたのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。もち ろん、この言葉がペトロの耳にどう響くかをイエス様が知らなかったはずはあり ません。イエス様の目は岸にある二そうの舟に向けられておりました。漁師たち が舟から上がって網を洗っているのを御覧になっておられました。その様子を見 れば不漁だったことは分かるでしょう。一匹の魚をもえることなく、ただ汚れる だけ汚れた網を洗っている、疲労と落胆に沈んだ漁師たちの顔を、主の御目が見 過ごしていたとは思えません。主はすべて分かっておられるのです。その上で言 われるのです。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。
群衆への語りかけとして聞いているうちは何の問題もないのです。一般的な 「良い教え」として聞いているうちは、喜んで聞いていられるのです。感心しな がら聞いてもいられるのです。しかし、自分への語りかけとなった時、そこには 葛藤が生じ始めます。信じて従うかどうかが問われるからです。明らかに、ペト ロの内には大きな葛藤が生じたに違いありません。ペトロはこう答えるのです。 「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5節前 半)。これは思わず口をついて出た、彼の心の叫びです。その意味するところは 明らかです。さらに労苦を重ねることに何の意味があるのか、ということです。 そんな苦労をするのはもうイヤだ、ということです。目に見える結果が出ること が分かっているのなら、そのための労苦はどれほど大きくても人は辛抱するもの です。あるいは、せめて実りが期待できるなら、その期待のゆえに人は労苦を引 き受けるものです。人は無意味に見える労苦には耐えられません。昼間に行う漁 のように、何も期待できないことのために苦労するのはまっぴらごめんです。そ んなことはイヤなのです。それが「何もとれませんでした」という言葉が示すペ トロの心です。
しかし、ペトロの言葉はそれで終わりません。さらに彼は言いました。「しか し、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節後半)。5節の前半が彼 の心の叫びであるのに対して、後半は彼の意志による決断を示します。彼は心情 に従いはしなかった。ともかく、沖へと漕ぎ出すのです。彼が沖に出たいからで はなく、それが主の言葉であるから、ただそのゆえにその言葉に従ったのです。 心の中に抱いていた思いがいかなるものであれ、「お言葉ですから」と言って従 うことと、「お言葉ですけれども」と言って従わないことは、決定的に異なるの です。
ペトロは主の言葉に従い、沖に漕ぎ出しました。その結果、何が起こったでしょ うか。福音書の物語は次のように続きます。「そして、漁師たちがそのとおりに すると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そう の舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、 二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(6-7節)。ど んなに心に葛藤があろうが、頭で理解できなかろうが、とにかく主の言葉に従っ た時、そこで奇跡が起こりました。そうです。御言葉に従った者だけが体験でき ることがあるのです。従ってはじめて分かることがあるのです。自分を脇に置い て他人事のように聞いていては絶対に得られないものがある。従ってはじめて受 け取ることができるものがあるのです。
人間を捕る漁師にしてあげよう
しかし、ペトロは主の御言葉に従って、単に多くの魚を得ただけではありませ んでした。もしそれだけならば、単純に大漁を喜んだはずでしょう。「儲かった、 儲かった」と言って喜んだはずです。しかし、ペトロはそう言わなかった。そう ではなくて、ペトロは、イエス様の足もとにひれ伏して言ったのです。「主よ、 わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。
何が起こったのか。彼は生ける神と出会ったのです。自分がまさに生ける神の 前に立っていることを悟ったのです。自分の人生が神の御前にあるということを 悟ったのです。それはいわば神の光が差し込んでくるようなものです。それまで 薄暗い人生に、神様の光が射し込んでくる。光が射し込んでくると何が見えてく るか。汚れです。家を考えてみればわかりますでしょう。薄暗ければ汚くたって 気にならない。しかし、光が入ってきたらほこりや汚れも見えてきます。それと 同じです。逆説的ですが、神に従って生きようとするときに、初めて自分がどれ ほど不信仰であり不従順であるかも見えてくるのです。へりくだって主の言葉に 従って生きようとするときに、初めて自分がいかに不遜で傲慢に生きているかも 見えてくるのです。「わたしは罪深い者なのです」と言わざるを得ない自分であ ることが見えてくる。
しかし、そこでペトロは驚くべき言葉を耳にしたのでした。それは恐らく彼が 生涯忘れることのできなかった主の御言葉であろうと思います。主は、ひれ伏し たペトロに「恐れることはない」(10節前半)と言われました。「恐れること はない」。それはキリストを通して語られた神の宣言です。「恐れることはない」 という言葉が神の側から語られるとき、人はもはや「主よ、わたしから離れてく ださい」と言う必要がなくなるのです。「恐れることはない」という言葉が与え られるとき、神のリアリティの前に恐れおののかざるを得ない罪人が、再び頭を 上げることができるのです。
いや、ペトロはただ頭を上げることが許されただけではありません。イエス様 はさらにペトロに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節後半) と言われたのです。「人間をとる漁師」とは、正確に言うならば、「人間を生け 捕りにする漁師」ということです。捕らえるのは殺すためではありません。真に 生かすためです。ペトロはやがてその本当の意味を知ることになります。なぜな ら、ペトロ自身、主によって生け捕りにされた者だからです。実りのない労苦の 虚しさに呻いていた彼の人生に、イエス様が神の言葉を携えて入ってこられた。 そして、彼を捕らえて真に生きる者としてくださったのです。さらにそのような イエス様の働きへと、ペトロは新たに召されたのでした。捕らえられた者が主と 共に捕らえる者とされ、生かされた者が主と共に人を生かす者とされたのです。
やがてペトロは初代教会の中心的な指導者となります。主のために大きな働き をなす人になりました。しかし、彼は決して忘れなかったに違いありません。す べてはあのガリラヤ湖畔にてはじまったことを。「あの時、主はこの《私》に語 りかけられた。主がこの《私》に語りかける言葉を聞いたのだ。そして、心の中 で葛藤しながらも、ぶつぶつ言いながらも、ともかくあの方に従ったのだ。まこ とに不信仰極まりない、不従順極まりない、まことに罪深い不遜な私が、『お言 葉ですから』と言って従ったのだ。そして、真実なる主は私を赦し、人間を生け 捕る漁師にしてくださった」。そうペトロは証しし続けたに違いありません。そ うです、それは私たちにしても同じなのです。主の言葉を《私への言葉》として 受け入れ、「お言葉ですから」と言って従うところからはじまるのです。