「神の恵みは腹立たしい!?」 2011年1月23日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ルカによる福音書 4章16節~30節 「主の恵みの年」の到来  今日読まれましたのは、イエス様が故郷のナザレに帰られたときの話です。そ の日は安息日でした。いつものようにイエス様は会堂に入られます。そして、手 渡されたイザヤの巻物を朗読されると、こう宣言されたのです。「この聖書の言 葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(20節)と。そして、イ エス様が話し始められると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉 に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」。そう書かれています。  彼らはイエス様の言葉に驚いたのです。その恵み深い言葉(直訳すると「恵み の言葉」)に驚いたのです。彼らが驚きをもって耳にしたその「恵みの言葉」と はいったい何だったのでしょう。私たちはその語り出ししか伝えられていません。 それは残念なことですが、ある意味では、それで十分ということでもあるのでしょ う。イエス様が朗読された聖書の言葉、そして語り出しの宣言が、イエス様の語 られた「恵みの言葉」の内容を明らかに示しているからです。  「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。そうイ エス様は言われました。イエス様が言われる「この聖書の言葉」は直前に朗読さ れた言葉ですが、それは次のように終わっています。「主の恵みの年を告げるた めである」。そうです。それが実現したというのです。つまり「主の恵みの年」 が到来した。ついに到来した「主の恵みの年」が、今、告げ知らされている。そ れがイエス様の語られた「恵みの言葉」の内容なのです。  「主の恵みの年」が到来した。「主の恵みの年」が告げ知らされている。それ は何を意味するのでしょう。それは旧約聖書のレビ記を読みますとはっきりして きます。レビ記25章を読みますと、そこには「ヨベルの年」という特別な年に ついての定めが書かれているのです。神がモーセに守るよう命じられたある特別 な年のことです。「ヨベル」とは角笛を意味します。その年の新年には国中で角 笛が吹き鳴らされるので「ヨベルの年」と呼ばれているのです。「主の恵みの年」 とは、もともとはその「ヨベルの年」を指す言葉なのです。  「ヨベルの年」についてはレビ記25章に詳しく書かれていますが、簡単に言 えば、それは50年に一度やってくる「解放の年」のことです。例えば、貧しさ のゆえに自分自身を奴隷として身売りしてしまった人がいるとします。ヨベルの 年になると無条件に解放され、借金もゼロになります。あるいは、貧しさのゆえ に土地を手放してしまった人がいるとします。その人はヨベルの年には無償で土 地を返してもらえるのです。これがモーセの律法に定められていることです。 (イスラエルにおいてそれが実際に行われていたかというと、どうもそうはいか なかったようなのですが、ともかくそのような年が神によって定められていたの です。)このように貧しい者が、自分が何かをしたからではなく、その資格や権 利があるからではなく、まったくの恵みとして解放され回復される年、それがヨ ベルの年です。これが「主の恵みの年」です。  そのような「主の恵みの年」が到来し、「主の恵みの年」が告げ知らされてい るのだ、と主は言われるのです。もちろん単に50年毎に繰り返されることになっ ている借金帳消しの話ではありません。それは所詮は人と人との間のことです。 究極において重要なのは人と人との間のことではなく、神と人との間のことです。 人間にとって本当に必要なのは、神に対する負い目が帳消しにされ、神によって 赦され、神によって救われるということでしょう。それこそが永遠に意味のある ことではありませんか。イエス様はそのような最終的な「主の恵みの年」の到来 を告げているのです。あの「ヨベルの年」と同じように、神による赦しと救いが 恵みとして与えられるのです。その資格があるからではなく、その権利があるか らではなく、人間の行いに対する報いとしてでもなく、あの「ヨベルの年」のよ うに、ただ一方的な恵みとして、無償の恵みとして、神による赦しと救いが与え られる。そのような「主の恵みの年」がイエス・キリストと共に到来したのです。  それは良き知らせです。これを「福音」と言います。人間にとって、これ以上 の福音、これ以上の良い知らせはありません。しかし、ここでもう一度「ヨベル の年」について考えてみてください。「ヨベルの年」が実際に行われたとしたら、 国中みんなが喜ぶことになるでしょうか。いいえ多分そんなことはないでしょう。 ヨベルの年が来て嬉しいのは、「貧しい人」だけです。神の恵みが嬉しいのは貧 しい人だけなのです。ただ神の一方的な恵み、無償の恵みによらなければ決して 解放されることはない分かっている貧しい人たちだけです。恵みを恵みとして受 け取ることしかできない、恵みに寄りすがるしかない貧しい人たちだけです。富 んでいる人にとっては、神の恵みは腹立たしいものでしかないのです。ですから イエス様が朗読した箇所にも、「《貧しい人》に福音を告げ知らせるために、主 がわたしに油を注がれたからである」と書かれているのです。  イエス様の口から出る恵みの言葉を「福音」として聞くことができるのは「貧 しい人」だけです。経済の話ではありません。救いの話です。無償の恵みによら なければ決して救われ得ないと分かって、恵みを恵みとして受け取るしかない 「貧しい人」。イエス様が宣言してくださった「主の恵みの年」を現実に喜びを もって生きることができるのは、そのような「貧しい人」です。すると問題は、 ここにいる私たちはどうなのか、ということでしょう。「貧しい人」なのかどう か。実は、そこに続くイエス様の言葉こそ、まさに私たちにそのことを問いかけ ているのです。 良き知らせは貧しい人に  人々は、イエス様の語られる恵みの言葉に驚きました。それはそうでしょう。 小さい時から知っているあのヨセフのせがれが、主に油注がれたメシアとして、 神の権威をもって、無償の恵みによる救いの到来を宣言したわけですから。それ は驚いたに違いない。しかし、それでもここまでは人々の反応はおおむね好意的 だったのです。「皆はイエスをほめ」と書かれていましたでしょう。  ところがそこからイエス様の言葉は次第に挑戦的になってまいります。主が彼 らに言われた言葉をもう一度お読みいたします。「イエスは言われた。『きっと、 あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファ ルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言う にちがいない。』そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の 故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の 間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くの やもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方 のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、 イスラエルにはらい病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかは だれも清くされなかった』」(23-27節)。  この「エリヤの時代云々、エリシャの時代云々」という話。実は、これは聞い ている人々にとっては私たちが想像する以上に過激で辛辣な言葉です。エリヤの 話にしてもエリシャの話にしても、要するに《神の恵みを受けたのは神の民を自 負するイスラエル人ではなくて異邦人だった》」という話ですから。そのような 話を、よりによって会堂に集まっているユダヤ人に話しているわけです。「『主 の恵みの年』は到来したのだけれど、神の恵みを受けるのはあなたがたではなく、 あなたがたが汚れていると言い、あなたがたが軽蔑して馬鹿にしているあの異邦 人たちだ」とイエス様は言っているのです。救われるのはあなたがたじゃなくて、 救われるはずがないとあなたがたが思っているあの異邦人たちなのだ、と。  これを言われたら腹が立つでしょう。もうそこにいた全員が、イエス様を殺し たいほどに腹を立てたのです。彼らはイエス様を町の外に連れて行って崖から突 き落とそうとした。それほど腹を立てたのです。イエス様だって分かっていたは ずです。これを言ってしまったら普通のユダヤ人なら絶対にキレると。イエス様 はどうしてこのようなことを言ったのでしょう。  それは彼らが「貧しい人」ではなかったからです。いや、本当は貧しいのに、 貧しいことが分かっていないからなのです。貧しいことが分からないから、恵み を恵みとして受け取ることができなくなっている。せっかくメシアの到来と共に 「主の恵みの年」が到来したのに、恵みを受け取ることができなくなっている。 本当に神が恵みを現されたときに、その恵みは恵みとして受け取られず、彼らに とっては腹立たしいものにしかならない。イエス様にはその悲しい現実が痛いほ どに分かっていたのです。  主は言われました。「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷 里のここでもしてくれ」と言うに違いない、と。イエスを通して現された神の御 業、他で現された神の奇跡は、自分たちにも現されて然るべきだと思っている、 ということでしょう。イエスがメシアだと言うならば、自分たちにも何かをして くれて当然ではないかと思っている。そして、イエス様は分かっているのです。 彼らは異邦人については決して同じことを言わないだろうということを。異邦人 に対して神が奇跡を現されたら、「そんな馬鹿な!」と思うに決まっている。 「神が異邦人たちを救われる?あんな汚れた連中を救われる?とんでもない!」 そう言うに決まっている。だからイエス様はあえてエリヤやエリシャの時代の話 を持ち出して彼らに言われたのです。神の恵みを受けるのは、あなたたちじゃな くて異邦人たちだ、と。  彼らは案の定腹を立てました。猛烈に腹を立てました。それがすべてを物語っ ています。彼らの内にあるものが、こうして表に出て来たのです。「あなたたち が受けるのではない」と言われて怒るのは、「受けて当然だ」と思っているから です。「受けるのは別の誰かだ」と言われて怒るのは、「そいつらよりも自分の 方が相応しい」と思っているからです。  この彼らの怒り狂った姿は、私たちに対する問いかけに他なりません。あなた も彼らと同じなのか、と。あなたは他の人間と自分を比較して、自分は受けるに 相応しいという思いを抱いているのか。与えられて然るべきであるという思いを 抱いているのか。それとも、貧しさのゆえに土地を失った人々のように、貧しさ のゆえに身売りした人のように、全く神の憐れみにすがるしかない者としてここ にいるのか。ただ向こう側から来る一方的な恵みによってしか救われないと自覚 する者であるのか。そのような「貧しい人」であるのか。聖書は私たちに問いか けているのです。  メシアは来られました。「主の恵みの年」は到来しました。救いは無償の恵み として与えられます。私たちは赦された者として、救いを与えられた者として、 「主の恵みの年」を生き始めてよいのです。そして、最終的に神の国において完 全な救いが与えられることを信じてよいのです。しかし、その神の救いを味わい 知るのは、貧しい人です。資格があるとかないとか言い出さず、相応しいか相応 しくないかと言い出さず、ただ恵みに寄りすがる人です。恵みを純粋に恵みとし て受け取る貧しい人です。主は貧しい人に福音を告げ知らされます。福音を福音 として受け取り、恵みを恵みとして受け取る人は幸いです。