「豊かな実を結ぶために必要な忍耐」
2011年2月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会 牧師 清弘剛生
聖書 ルカによる福音書 8章4節~15節
神の言葉という種
「聞く耳のある者は聞きなさい」。そうイエス様は言われました。ルカによる 福音書ではわざわざ「大声で言われた」と書かれています。「叫んだ」という意 味の言葉です。よほど大事なことが語られているということでしょう。「聞く耳 のある者は聞きなさい」。ということで、今日は「聞く耳」の話です。
「聞く耳」の話が出て来るのは、もう一方において「語られる言葉」があるか らです。その言葉とは、もちろんイエス様の語る言葉です。宣教の言葉です。今 日は4節からお読みしたのですが、8章の始めには次のように書かれています。 「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や 村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった」(8:1)。イエス様は「神 の国」を宣べ伝えていたのです。福音(良き知らせ)を告げ知らせていたのです。
「すぐその後」とありましたが、その直前にはこんな話が書かれています。イ エス様がファリサイ派の人に招かれて、一緒に食事をしていた。すると一人の女 がそこに入ってきたのです。名前は書かれていません。「一人の罪深い女」とだ け記されています。その女が香油の入った石膏の壺を持って来て、「後ろからイ エスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬ ぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。」その後の展開は割愛しますが、最 終的にイエス様はその女にこう語っています。「あなたの罪は赦された」(7: 48)。そして、さらに言うのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心し て行きなさい」(同50節)。このようなエピソードに、イエス様の宣教の中心 が何であったか良く現れています。それは罪の赦しと救いです。イエス様は神の 権威をもって罪の赦しを宣言し、救いを宣言されたのです。
そのようにイエス様は語られました。単に言葉をもって神の国の福音を宣べ伝 えただけではなく、行動をもって宣べ伝えたのです。神の赦しと救いへの招きを 語るだけでなく、行動をもって宣べ伝えられた。この罪深い女に関するエピソー ドもその一つです。イエスという存在そのものが語っている。いわばイエス・キ リストという存在そのものが神の言葉だったのです。
「神の言葉」に限らず、「言葉」はそれ自体の内に力をもっています。何かを もたらし、何かを引き起こす力を持っている。しかし、言葉が何をもたらすかは 言葉自体によっては決まりません。受け取る側によって左右される。実際、ある 言葉がある人には喜びをもたらします。しかし、同じ言葉が別な人には悲しみや 怒りをもたらします。そのように、受け取り手によって左右されます。
その意味で「言葉」は「種」に似ています。「種」はその内に実りをもたらす 力を持っています。しかし、実りは「種」だけによって決まるのではありません。 それを受け入れる「土地」によって左右されるのです。ですから、今日の箇所で もイエス様は種蒔きのたとえ話をするのです。神様はキリストにおいて福音を語 られた。その言葉によって、その行動によって、最終的には十字架と復活によっ て、神の言葉をこの世界に与えられた。今もそのキリストが教会を通して宣べ伝 えられています。宣べ伝えられている神の言葉は、人間を救う力を持っています し、救いの実りを豊かに実らせる力を持っている。
しかし、救いをもたらすか否かは、神の言葉だけによって決まるのではないの です。それを聞く側によって左右されるのです。ですから、イエス様は種蒔きの たとえ話をされて、そして大声で言われたのです。叫ばれたのです。「聞く耳の ある者は聞きなさい」と。種は蒔かれた。後は聞く耳の問題だ、ということです。
種は百倍の実を結ぶ
たとえ話の内容は単純です。イエス様は種が落ちた四種類の土地について語っ ておられます。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は 道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落 ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨 も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、 生え出て、百倍の実を結んだ」(5-8節)。
蒔いている間に種が道端に落ちたり、石地に落ちたり、茨の中に落ちたりとい うのは、今日の農業では考えられないかもしれませんが、当時はいくらでもこの ようなことがあったようです。というのも、種蒔きの時には畑の上に適当にばら まくからです。そうやって種を蒔いてから少し耕します。すると種が若干土で覆 われる。そのような種の蒔き方です。ですから道の上にも落ちることがある。石 地や茨の中に落ちることもあるのです。
道端に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「道端の ものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来 て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」(12節)。神の言葉が蒔かれ た。しかし、そこで実りが見られないことがある。その一つの場合がこれです。 道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。そ こは蒔かれた後に耕されない。種は受け入れられないままなのです。道端に落ち た種は「人に踏みつけられ」と書かれています。いかにも受け入れられないで粗 末にされている感じがイエス様の言葉に表れています。
イエス様の宣教の言葉、イエス様の行為、イエス様の存在が受け入れられない。 そういうことが実際に起こっていました。イエス様の周りに集まる群衆の中には、 いつでもファリサイ派の人たちや律法学者たちがいたのです。敵意と反感をもっ て聞いている人たちです。彼らは初めから受け入れる気がない。既に踏み固めら れた道のように、固まってしまっているものが内側にあるのです。固まってしまっ ている自分の考えがあるのです。自分の考えていることと同じような考えならば 受け入れる。自分の考えていることと異なるならば受け入れない。自分の既に持っ ているものが基準なのです。だから福音が入っていかない。ですからそのうち悪 魔が持っていってしまう。そういう話です。そのようなことはイエス様に対して も起こりましたし、後の時代にキリストが宣べ伝えられている宣教の場面におい ても起こってきたことです。
石地に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「石地の ものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じ ても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」(13節)。この場 合、神の言葉は受け入れられたのです。喜びをもって。しかし、イエス様を信じ て喜びが与えられた、というだけで満足しているならば、それは根が深く降ろさ れていない種のようなものなのです。ただ芽が出たというだけですと、やがて枯 れてしまうことになる。試練が起こってきた時に「身を引いてしまう」ことにな るのです。「身を引く」というのは、信仰を捨てるということです。そのような ことが起こり得る。それが石地に落ちた種の場合です。
茨の中に落ちた種については、イエス様がこのように説明しています。「そし て、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に 覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである」(14節)。麦より も茨の方が成長が速いと、覆われてふさがれてしまう。成長が妨げられてしまう。 その茨とは、第一に「思い煩い」だと言う。思い煩いが生じるのは不足や困窮の 場合です。もう一方で茨とは「富や快楽」だと言います。富や快楽が問題となる のは、満ち足りている場合です。不足にせよ困窮にせよ、そこには成長を妨げる ものがある。本当は神の言葉が与えられ、救いが芽を出しているという大きなこ とが起こっているのです。しかし、それよりも思い煩いや富や快楽の方が大きく なれば、成長はストップしてしまう。それが茨の中に落ちた種です。
さて、「あなたはこれらの内のどれですか」と、そう問われているような気が します。しかし、イエス様が言いたいのは恐らくはそういうことではないのです。 主は叫ばれたのです。「聞く耳のあるものは聞きなさい」と。そうです、主は聞 いて欲しいのです。そして、受け入れて欲しいのです。さらにはその蒔かれた種 が実を結ぶことを望んでおられるのです。農夫ならば当然です。収穫を期待して 蒔くのです。
既に道端、石地、茨の地という三通りの土地について見てきました。しかし、 実はこれらは別々の場所にある三種類の土地の話ではなく、一つの畑の話なので す。道端というのは、先にも申しましたように、畑の中に出来た道のことです。 石地とは、畑の中で取り除ききれなかった石が残った場所のことです。茨もまた、 根っこを取り除ききれなくて、残っていた根から生え出た茨が麦と一緒に伸びて きたという話です。ですから、道端や石地や茨の地が永遠にそのままであるとは 限らない。皆、良い土地になり得る一つの畑なのです。
イエス様は言われました。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百 倍の実を結んだ」(8節)。「百倍の実を結んだ」という言葉で、ある人はパウ ロやアウグスチヌス、宗教改革者ルターやジョン・ウェスレー、マルチン・ルー サー・キング牧師やマザー・テレサを思い浮かべるかもしれません。あるいは、 救いの喜びに輝いている身近な信仰者を思い浮かべるかもしれません。確かにそ こには神の言葉の結んだ豊かな実りの目に見える現れがあります。しかし、それ らの人々は決して特別な人々ではないのです。蒔かれているのは、同じ種なので しょう。私たちに蒔かれているのと同じ種。私たちに蒔かれているのも、百倍の 実を結ぶことのできる同じ種なのです。
主は言われました。「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、 よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(15節)。まずは聞き方です。 「立派な善い心で御言葉を聞き」。別に立派な人間になれと主は言っておられな い。聞き方の話です。「立派な」も「善い」も「良い土地」と言う時に使われて いた言葉です。「立派な善い心で御言葉を聞き」とは、これまで見た三種類の土 地の逆を考えたらよいのでしょう。御言葉を受け入れ、そこに留まる。ですから、 「よく守り、忍耐して」と書かれているのです。ただ最初の喜びで満足している のでなく、受け入れた種が自分の内にしっかりと根を降ろすことを求めていくこ と。そのような信仰生活を妨げたり、そこから引き離そうとするものはいくらで もあります。試練があり、困難がある。富や快楽への誘惑がある。しかし、その ような中で信仰に留まるのです。そこには忍耐が必要とされます。忍耐強く留ま ることは、私たちがすることです。そうするときに、豊かな実りは神が与えてく ださいます。