「わたしもあなたを罪に定めない」 2011年3月13日 主日礼拝 日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生 聖書 ヨハネによる福音書 8章1節~11節 訴える口実を得るため  「わたしもあなたを罪に定めない」これが今日の説教題であり、今日、私たち に与えられている主の御言葉です。その言葉を直接イエス様から与えられたのは 一人の女性でした。1節からお読みいたします。「イエスはオリーブ山へ行かれ た。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって 来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々 が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言っ た。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打 ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えに なりますか』」(1-5節)。  こう書かれていますように、その女性は姦通の現場で捕らえられた人でした。 人々がどのようにして現場を押さえたのか。よく分かりません。そもそも女だけ が連れて来られること自体、不自然です。男の方はどうしたのでしょう。ともあ れこの女が抵抗していないところを見ると、姦通の事実はあったに違いない。し かし、なぜ「小サンヘドリン」と呼ばれる裁決の場に直接連れていかないのでしょ う。なぜわざわざイエスのもとに連れてきたのでしょう。彼らは来て尋ねました。 「あなたはどうお考えになりますか」と。教えを請うているのではありません。 聖書は次のように説明しています。「イエスを試して、訴える口実を得るために、 こう言ったのである」(6節前半)。どうもはじめから、そのつもりで連れてき たようです。  律法学者たちが提示した質問は、実に考え抜かれ周到に準備されたものでした。 イエス様が「モーセの律法にあるとおり、彼女を処刑しなさい」と言ったらどう なるでしょう。彼らはイエスを「訴える口実」を得ることになります。なぜなら、 建前としては、死刑を執行する権限は支配者であるローマ人が持っていることに なっているからです。後にピラトのもとにイエス様を連れて行った人々が「わた したちには、人を死刑にする権限がありません」(18:31)と言っていると おりです。ですから、もしイエス様がモーセの律法に従って死刑にしなさいと言 うならば、ローマの権威よりもモーセの権威の方が上にあると主張する者、すな わちローマの権力に反逆する者としてでっち上げることができるわけです。では イエス様が「死刑にしてはいけない」と言うならば、どうなるでしょう。イエス をあからさまにモーセの律法を否定する者として攻撃することができるでしょう。 モーセの律法に背くことを公然と教える悪しき教師として訴えることもできる。 いずれにせよ、イエス様は困ることになるわけです。  そのように律法学者たちが「イエスを試して、訴える口実を得るために」利用 したのが、この女性でした。この人は彼らの悪巧みのために利用されて、公衆の 真ん中に引き立てられて恥を晒すことになったのです。姦淫の現場を押さえられ たこと、しかも、それを利用されたこと、それはまことに不運であったとも言え るでしょう。しかし、私たちはここで一つの大切なことを見落としてはなりませ ん。それはいかなる経緯にせよ、ともかく彼女はイエス様と共にいるという事実 です。この人はイエスに全く興味も関心もなかったかもしれません。しかし、と もかく強制的に主の御前に連れてこられたのです。  ならばそれは決して不幸なことではない。それは神が備えてくださった悔い改 めへの招きの時であり、キリストに出会う機会であったのです。この女の人は、 もし姦通が明らかにされなければ、恥ずかしい思いはしなかったかも知れない。 しかし、彼女はさらに罪の泥沼に沈んでいくことになったでしょう。この人はそ のような泥沼から引き出された。苦しく惨めな思いをしたけれど、この物語の中 でただ一人だけキリストの恵みに触れているのはこの人なのです。 わたしもあなたを罪に定めない  さて、物語は次のように続きます。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書 き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして 言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を 投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた」(6後半-8節)。 すると、どうなったか。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一 人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(10節)。 このような展開となるのです。  「罪無き者、まず石を投げよ」と言われたら誰も石を投げられなかった、とい うのは自然な展開のように見えます。しかし、ここで私たちは状況をよく考えね ばなりません。ファリサイ派などの敬虔なユダヤ人の中には、「幼い時より律法 は守ってきました」という自負を持っていた人は少なくなかったのです。皆が罪 人であるというのは、必ずしも共通の認識ではありませんでした。もし「わたし は正しく生きてきました」という人が一人でもいて、その人が最初の石を投げた らどうなったでしょう。石打ちの刑には執行の仕方があります。証人が最初の石 を投げます(申命記17:7)。それが合図となって皆が石を投げるのです。誰 かが主の言葉に従って最初の石を投げたなら、他の人々もいっせいに石を投げ始 めたことでしょう。そして、その場はたちまち凄惨な血の海と化したに違いあり ません。その結果、律法学者たちの目論みどおり、イエスがこの出来事を先導し たのだと訴えたに違いありません。そのようなことは、十分に起こり得ることだっ たのです。  ですから、この場面に描かれているのは自然な展開だと思わない方が良い。特 別なことが起こっているのです。それはイエスという御方の前だからこそ起こっ た、そのような出来事なのです。そのイエスという御方とその言葉の前に引き出 される時に、自分は正しいと言い続けてきた人が、そう言えなくなる。その愛と 真の清さの前に出る時に、自分の罪と汚れを認識せざるを得なくなる。真に父な る神と共におられる御子の前では、表向きだけ繕った信心深さなど何の意味もな くなる。ナザレのイエスという御方は、当時のユダヤ人社会においてそのような 存在であったし、今日の私たちにとってもやはりそのような存在なのです。「神 は光であり、神には闇が全くない」(1ヨハネ1:5)。イエス様という御方は、 人間存在の隅々まで照らし出す神の光そのものです。  主の前から、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきました。 このように、明るく照らし出す光に対する人間の反応は、第一には《逃避》です。 そこから逃げ出すのです。この場面はそのような人間のあり方を示しています。 そして、第二の反応は《敵意》です。光によって照らし出されるのが嫌ならば、 イエスを抹殺して光を消してしまうしかないのです。福音書を読み進む時、私た ちはそのような人間の姿をも見ることになるのです。  しかし、聖書はなんと言っているでしょう。そこには逃げなかった一人の人が いたと言うのです。訴えられていたその女性です。皆が去って行ったのですから、 彼女も立ち去ることはいくらでもできたはずです。訴える人々がいなくなって災 いは回避されました。彼女の身に及んでいた危機は過ぎ去りつつあります。苦し みから逃れることが救いであるならば、まさにそこから立ち去ることが、彼女の 救いとなるはずです。しかし、彼女は立ち去らなかったのです。  「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)と書かれています。イ エス様は問われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなた を罪に定めなかったのか。」彼女は答えます。「主よ、だれも」。誰も彼女を罪 に定めることはできませんでした。いや、一人もいなかったわけではありません。 そこに一人だけおられます。イエス御自身です。真に正しい御方、真にに清い御 方、父なる神と一つであり、罪なき御方。「罪無き者、まず石を投げよ」と主は 言われましたが、その石を投げることのできる唯一の御方がそこにおられます。 そして、彼女を罪に定めることのできる唯一の御方がこう言われたのです。?? 「わたしもあなたを罪に定めない。」  こうして、裁かれるべき罪人が、その罪を赦され、再び生きることを許されま した。彼女は確かにその言葉を聞いたのです。救いはただ苦しみを免れるところ にあるのではありません。ただ危機から逃れられるところにあるのではありませ ん。そうではなく、キリストによって罪を赦されるところにこそ、真の救いはあ るのです。どうしてこの人だけが主の赦しの言葉、救いの言葉を聞くことができ たのでしょう。それは彼女がイエスのもとに留まったからです。主の光に照らさ れた一人の罪人として救い主のもとに留まったからなのです。 もう罪を犯してはならない  そして、最後に一つのことを申し上げて終わりたいと思います。今日の聖書箇 所をお読みになった時、この部分が括弧で囲まれていることに気づかれたことで しょう。結論から申しますと、この部分は本来のヨハネによる福音書の一部では なく、別に伝承された古い物語なのです。この物語は多くの写本には欠落してい ます。またある写本ではヨハネによる福音書の一番最後に付録のように置かれて います。また別の写本ではルカによる福音書の中にこの物語が置かれています。 これはそのような物語なのです。しかし、そのようにヨハネによる福音書とは全 く別に伝えられた物語が、何百年かするうちに、この福音書の中に入れられて読 まれるようになりました。十字架へと向かわれる旅路の途中に置かれたのです。 そこには大きな意味があると思うのです。  「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われました。しかし、その ように言われた主はまた、洗礼者ヨハネが語ったように、「世の罪を取り除く神 の小羊」(1:29)に他なりません。罪を贖う犠牲として屠られるために十字 架へと向かっておられたのです。そのような御方が「わたしもあなたを罪に定め ない」と言われたのです。すなわち、この言葉はキリストの命の重さをもった言 葉なのです。決して安っぽい恵みとして聞いてはならない言葉なのです。  ですから、私たちはその後に語られた言葉をも一緒に受けとめねばならないの でしょう。主は彼女にこう言われたのでした。「わたしもあなたを罪に定めない。 行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。真にキリス トの赦しの言葉に出会った者は、キリストの命の重さをもった恵みに応えて生き る者として、そこから立ち上がり新しい人生を歩み出すのです。